ここしばらくは
怒りについての考察から
当然のことながら
発生元である心について
展開してまいりました。
その
理解できているようで
理解できていない
心というものを
整理して
それではその心
私の心というものを
ありのままに
正しく映すには
どんな鏡を求めれば
よいのだろうか?
ということで
三枚の鏡の
自分鏡
他人鏡
法鏡
のどの鏡が
自分を正しく映すのかを
見てまいりました。
自分鏡は
自分に対する欲目や
自惚れが出てきて
どうしても正しくは
映りませんでした。
他人鏡は
他人の都合で
評価がコロコロ
変化するので
これも正しく映って
いるとは言えません。
法鏡という
この鏡こそ
自分の欲の本性を
照らし出し
自分を正しく映す鏡でした。
その鏡に映る自分は
心常念悪
口常言悪
身常行悪
曽無一善
というおぞましい心
でありました。
この物質界に
染まりきって
湧き出てくる
欲の心であり
自我むき出しの心
でありました。
そして、
その法鏡に映った
自らの欲の本性を
受け止めて
その鏡に映った
心の曇り
その曇りを取ることが
私たちに取って
最も大切なことで
あることを
学んでまいりました。
その方法は
自己を見つめること
静かな時間をとり
一つひとつの念いを
点検していくことが
必要であることを
述べ伝えました。
本日は自己を見つめる
ことについて
昔の私の真理ノートを
めくっていましたら
松原泰道禅師の
坐禅についての
大変、興味深いお話が
メモされていましたので
タイミングとして
大変共通したお話ですので
是非、共有して
頂きたいと思います。
松原泰道禅師の本は
予てより
大分、
読ませていただいて
おりますので
私の考え方に
随分、影響を与えて頂いた
方のお一人です。
私のメモには
1999年とありますので
今から15年ほど前に
読んでメモをしたものと
思われます。
それでは抜粋いたします。
『「足るを知る」こころ』
プレジデント社 p32抜粋
『14世紀の中国に
『14世紀の中国に
中峰(ちゅうほう)という
禅者がいました。
中峰は次のように
禅の定義を行った
優れた人物です。
《禅とは心の名なり、
《禅とは心の名なり、
心とは禅の体(てい)なり》
心というのは
心というのは
本心であり本性です。
禅とは本心であり、
その一つの修行方法が
坐禅なのです。
『サラダ記念日』という
『サラダ記念日』という
ベストセラーを書かれた
俵万智さんの歌に、
泣いている
泣いている
われに驚くわれもいて
恋は静かに
恋は静かに
終わろうとする
というのがあります。
というのがあります。
恋をし、
泣いたり喜んでいる
「われ」がいる一方で、
静かに自分を見つめる
「われ」もいる。
坐禅とは、
坐禅とは、
自我(エゴ)と
自己との対話に
ほかならないのです。
「坐」という字を
よく見ると、
土の上に
「人が二人」並んでいますが、
これには意味があります。
つまり、
自我と自己との
「二人の自分」の対話が
断絶しないように
対話することが、
坐禅の意味です。
「二人の自分」との
「二人の自分」との
対話量が多い人の人生は、
豊かになりますが、
自我をむき出すのみで、
自己との
対話をしない人は
貧しい人生を
送ることになります。
坐禅を組むことも、
坐禅を組むことも、
写経も
型に囚われすぎては
なにもならない。
形式に流れすぎると、
形式は上達しても、
「二人の自分」との
対話は忘れられてしまう
危険性があります。
しかし、
しかし、
型はなんといっても
大切です。
かなり到達した境地を
つかんだ人は、
たとえ立ったままでも、
実質的には
坐禅をしているのと
同じ精神状態に自分を
置くことができますが、
こうした人は
やはり少数でしょう。
まず、
まず、
静かな所で坐禅をし、
整った環境に手助けされて、
早く
「二人の自分」との
対話量を
増やすべきでしょう。
写経にしても、
写経にしても、
崩し文字や
草書はさけるべきです。
あくまでも楷書で
きちんとした字を
書くべきでしょう。
きちんと字を写しながら、
そこに
「自分のこころ」
を投入するのです。
字が乱れる時、
自分のこころも
揺れているのです。
言い換えれば、
言い換えれば、
形だけ坐るのではなく、
坐禅に徹する
自分を早くつくり
上げることであり、
写経に徹する自分を
早くつくり上げる
ことが大切です。
観自在菩薩の「観」は、
観自在菩薩の「観」は、
一般的に思われている
観察という意味では
ありません。
「観察する者」と、
「観察される者」とが
一体になる。
もっと言うならば、
観察される者に
なりきって、
観察するのです。
非常に難しいことに
非常に難しいことに
思えるかもしれませんが、
芸術活動に打ち込んで
いらっしゃる方には
すぐ理解できるはずです。
花を描こうとする時、
花を描こうとする時、
描く花そのものになって
描くのです。
私は花を描く
「主体」であり、
花は「客体」であると
突き放していては、
良い作品は
できないはずです。
一体になることの重要さです。
しかし一方で、
しかし一方で、
「一体になる」ことも
また難しいのです。』
如何でしたでしょうか?
坐禅の真髄に
触れられたのでは
ありませんか!?
自己をみつめることの
重要性が
さらに理解できたのでは
ないでしょうか!
生かしていただいて
有難うございます。
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角田 政治
携帯番号:080-3085-4801
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Blog:「もう一つの今」http://sinrikenkyu.blogspot.jp/
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