2014年7月28日月曜日

“自分を正しく映す鏡”3

昨日のブログの冒頭に
 
※「実はこの法鏡については
○月○日号の
(“こころ”
その未知なるもの)
で触れています。
再度振り返って
読んでいただけたら
さらに理解が
深まるのではないかと
思います。」
 
と書きました。
○月○日のところを
ブログを書き終えてから
埋めるつもりで
いましたら
うっかりしまして
そのまま送信して
しまいました。
すみませんでした。
 
正しくは
7月21日号
“こころ”
その未知なるもの
です。
是非、前に戻って
読んでいただきたいと
思います。
 
それでは本題に
入らせていただきます。
 
自分を正しく映す鏡
それは法鏡である
と書かせて
いただきました。
 
法鏡は仏教のことで
仏教を学べば学ぶほど
真実の自己の本性を
知らされる。
真実の私の相(姿)が
映し出されてくる鏡
なのです。
 
そしてその鏡に
近づけば近づくほど
はっきりと現われてくる
自分の本当のすがたとは
 
お釈迦さまは
こう仰いました。
 
心常念悪                     
口常言悪                     
身常行悪                      
曽無一善                     
 
心常に悪を念じ
口常に悪を言い
身常に悪を行じ
曽て一善無し
 
すべての人は、
心と口と体で
常に悪を造っている。
いまだかつて
一つの善もやった
ことがないのだ。
と説かれておられるのです。
 
実は
前にも述べていますが
私はここのところで
躓いたのです。
 
確かに悪は散々思い
散々悪口を言って
散々悪いことは
やってきた。
 
けれども
かつて
一善もないのだろうか?
あれもこれも
人の為に社会の為に
やったのに
これは善では
ないのだろうか?
 
それに
私は兎も角として
お釈迦さまは
全人類に向かって
曽無一善
と仰っておられる。
 
全人類が悪人なんて
あり得ない!
と心底そう思いました。
 
そう思っていたのは
私だけではなく
これを読んでいる
方の中にも
いらっしゃるのでは
ないでしょうか?
 
しかしある時
ふっと!解ったのです。
お釈迦さまが仰って
おられるのは
自我のことを
言われているんだ
自我は偽我です。
偽者の我です。
この物質界を
生きていく上では
ある程度
無くては生存して
いけません。
 
お釈迦さまは人間を
煩悩具足といいました。
煩悩の塊で
煩悩しか持っていない
ということです。
 
そして、
この曽無一善です。
かつて
一善もないのですから
全人類は、
悪人だということです。
 
自我は煩悩です。
人間はこの物質界に
ある目的を持って
一定期間
不完全なる肉体を持って
存在している
完全存在である
と言う事を
再三、お伝えしています。
 
しかし、一旦
この肉体を持って
生活をしていきますと
肉体こそ自分である
と思っていきます。
この物質次元では
確かな実感が
あるのでそう思うのも
仕方ないことです。
 
しかし
本当の自分というのは
永遠の生命のなかの
実相なのです。
それを
真我と言っています。
 
仏教では阿頼耶識と
言っています。
肉体は無期限では
ありませんので
皆、今日以後のいつか
亡くなっていきます。
これが“死”
というものです。
 
しかし、
肉体の死があっても
それで終りとは
ならならないのです。
 
生命は永遠であります。
その実相である真我が
一定期間肉体という
仮相の服を覆って
この仮相の世界である
物質界に存在している
というのが真実です。
 
しかし
先ほども言いましたが
この仮相の物質界こそ
この仮相の肉体こそが
すべてであると
思い込んだ人間は
 
同時に存在している
他の生命
鉱物や動物や植物等
生きとし生けるものを
ないがしろにして
人間中心の世界を
築いていきます。
 
その生き方そのものが
悪でなく何が
悪なのでしょうか?
 
開拓という言葉で
自然を切り開き
そこに元々住まう
他の生き物を殺して
生きています。
 
人間の都合で追われた
動物達は生態系を壊され
生命を脅かされます。
ある者は餓死し
ある者は
人里に生命の糧を
得るため降りていきます。
そして射殺されます。
その動物の肉は
人間は食べてしまいます。
 
人ごとのように
聞こえるかも知れませんが
私も肉も食べますし
魚も食べます。
おいしい!おいしい!と
食べています。
 
しかしひとつ
見方を転換させますと
人間も動物であり
他の動物の生命も
同じ生命であります。
殺される動物の
立場になったら
たまらないだろう
と思います。
 
こんなことにも
この物質界の中で
慣れっこになって
生きています。
 
お釈迦さまの
かつて一善なし
その通りだと思います。
 
自分がそうであるという
自覚がないのです。
 
これらは
自我が勝っている
人間の本当の相(姿)です。
 
昨日に引き続き
親鸞聖人の和讃の中に
“悪”なる性について
こう仰っている言葉があります。
 
「悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる」   
(悲歎述懐和讃)
 
悪性(あくしょう)
さらにやめがたしとは
悪性とは心の三毒
のことです。
 
欲や怒りや妬み嫉みの
心のことです。
 
さらにやめがたしとは、
やめようとしたが
少しもやまらない
ということです。
 
心は蛇蝎の
ごとくなりとは、
「蛇蝎」(じゃかつ)とは、
蛇やサソリです。
恐ろしいや
嫌らしいという
代表になっているのが
蛇やサソリですので
嫌らしくて恐ろしい心
であるという意味です。
 
修善も雑毒なるゆえにとは、
「雑毒」(ぞうどく)とは、
毒がまじっていることです。
 
「修善」(しゅぜん)とは、
善いことをする
ということです。
善いことをしても、
そこには毒がまじっている。
ということです。
 
どんな毒が
混じっているのでしょうか?
 
見返りを期待する心です。
善いことをしても、
見返りを期待する心が
出てきてしまうと
親鸞聖人は
仰っているのです。
 
私もこういう経験が
あります。
ある時、自分の家から
向こう三軒両隣の道を
毎朝、綺麗に掃き掃除を
しようと思ったのです。
 
初めの三日間くらいは
掃除に集中して
「ああ!きれいになった!
気持ちがいい!」と
心底思っていたのですが、
 
それ以後になりますと
「こんなに
きれいにしているのに
みんな当たり前のように
思っている!
俺が毎日
掃除しているのに!」
という気持ちが
湧いてきます。
 
人から
誉めてもらいたいという
見返りの心が
出てくるのです。
 
まさしく
修善も雑毒なるゆえに
そのものです。
 
一善を為したつもりでも
実は雑毒の善であったのです。
 
あなたには
こんな経験は
ないでしょうか?
 
あるのではないでしょうか?
 
この部分については
明日、もっと深く
考察を加えていきたいと
思います。
 
生かしていただいて
有難うございます。
 
 
 
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角田 政治
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