昨日に引き続き
自分を正しく映す鏡
についてさらに
考察を深めていきます。
シェアしてください。
昨日は
悲歎述懐和讃の中の
親鸞聖人のお言葉
「悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる」
について学ばさせて
いただきました。
その中の
「修善も雑毒なるゆえに」
この意味は
善いことをしても、
そこには
毒がまじっている。
その毒とは
見返りを求める心である
と言いました。
この心とは
善いことに隠れていて
見え難い心ですので
さらに法鏡に照らして
みたいと思います。
あなたは
電車の中で
座っていますと
前にお年寄りが
立っています
あなたは
席を譲ろうと
声をかけます!
「どうぞ!お掛けください!」
お年よりは
ニコッと笑って
「有難う!」と言いました。
こうなれば、あなたは
善いことをして
いい気持ちです。
しかし、
席を譲るところまでは
同じなのですが
お年寄りからは
口には出しませんが
「当たり前だろう!
若いもんが座りよって!」
という顔つきで
黙って座ります。
どうでしょう?
この状態でも平然として
いられますでしょうか?
あなたの心に
問いかけてみてください!
「何だよ!折角譲って
やったのに!その態度!」
口には出しませんが
そう思うのでは
ないでしょうか?
知らず知らず
見返りを求める心が
湧いてきます。
雑毒を含んでいることに
気づきます。
私の知り合いに
あらゆる障害者団体や
ユニセフのような
慈善団体に
定期的に寄付を
されている方が
いらっしゃいます。
大きな会社を経営
されている方で
お金持ちでは
ありますが
お金持ちほど
吝嗇家はいないと
言われていますので
立派な方です。
そのことは
私だけではなく
知り合いの方は
みんな知っていました。
何故?
知っているのでしょう?
それは何かの会合や
パーティの席や
個人的な会話の中で
本人が
仰っているからです。
みんな本人から聞いて
知っているのです。
ある時
その方が経営している
会社のパンフレットが
送られてきました。
そこには
過去の寄付した団体や
慈善グループの名前が
ずらっと
書かれていました。
また、それらの団体から
贈られた感謝状が
その案内には
散りばめられていました。
それを見て
少し違和感を感じたのを
覚えています。
「でも、寄付するだけ
いいじゃあない!
それで助かる人が
いるんだから!」
その通りです。
それは善いことですので
寄付は是非続けて
欲しいと願います。
今は親鸞聖人のお言葉
からの学びですので
この心には
雑毒が含んでいることに
気づきます。
ここまでくると
コマーシャルと同じです。
TVなどのCMは高いです。
慈善の方が
費用対効果にしても
宣伝効果もイメージも
いいと計算があります。
真の篤志家は
人知れず徳を積んで
おられます。
やはり見返りを求める心が
ここにはあります。
お釈迦様は
布施の心がけとして、
「三輪空」というのを
教えておられます。
布施とは
親切ということです。
人に親切をする時には
「三輪空」でありなさい!
と真の親切を
説かれています。
本当の親切、
行いをする時に
大切なことは
このことですよ!
心して聞きなさい!
と言っているのです。
三つのものを空じなさい、
忘れなさい
ということです。
三つのものとは、
施主
受者
施物
の三つです。
他人に親切した時、
私が
誰々に、
何々を、
この三つを忘れるように
しなさいよ!
そうでないと、
折角の親切にも(修善)
毒がまじってしまいますよ
(雑毒)。
と仰っています。
親切は
素晴らしいことです。
しかし、善いことをする
ということで、
法鏡に映し出された
自分を見てみると
そこには
自分がやった!という思い
あの人に!あの団体に!
こんな善いことをした
と自慢する気持ちが
厳然として
映っているのです。
世間は隠せても
自分の中の真我は
すべてお見通しであるのです。
人間が死んだとき
見せられるものがあります。
まるで映画のように
自分の一生の行為を
振り返るのです。
あなたの顕在意識は
死んでも
暫くは残っています。
自分は沢山、善いことを
しているから大丈夫!と
思っています。
でも、その時に
一番重視されるものは
その行為そのものよりは
その行為をする時の
思いであるのです。
心がすべてです。
やったことは善いことだ
しかし、
どういう気持ちで
それを行ったのか?
それが重要なのです。
仏教では阿頼耶識と
言われている
真我の領域では
すべての思いが
業力として蓄えられています。
本人が忘れていようが
いまいが、
不滅の悪業力として、
不滅の善業力として、
収められているのです。
これは
素晴らしいことですが
反面恐ろしいことでも
あります。
この物質世界で
行ったすべての思いから
発した行為に
責任を取らなければ
ならないと言うことです。
このことが
何をやっても
ばれなければいいとか
警察に捕まらなければ
いいとか
人を騙しても
自分が金持ちになれば
いいとか
この世で好き放題
自我のまま
自分の利益
自分達の利益と
我利我利亡者であっても
いいとか
そのようにはいかない
理由であるのです。
やり得というのは
一切ない世界
自己責任の
厳しい世界でもあるのです。
この世でうまくいったと
思っても
自分の中の真我は
すべてお見通しなのです。
上記のような人を
無明の闇といって
無明は明かりが無いので
暗い暗いことです。
闇はまさしく闇で病みで
止みで(心を止めている)
真っ暗な心の人と
言います。
これがすべての
苦悩の根元なのです。
それが
死後の苦しみと
なってくるのです。
地獄の
世界に赴かなければ
なりません。
地獄とは神や仏や
閻魔さまから強制的に
入れられるのでは
ないのです。
自分の真我は
一ミリの狂いも無い
正しいモノサシなのです。
あの世は波長だけの世界です。
波長同通の法則と言って
波長に合った世界にしか
住むことはできないのです。
ただ、それだけのことです。
だから素晴らしいし
反面恐ろしいことで
あるのです。
理解できますでしょうか?
このことを
後生の一大事と言うのです。
私たちは
肉体を持っているときに
あまり“死”のことを
考えません。
また、考えたとしても
死にたくないと
思うだけで
一日でも
長生きするために
このサプリメント
この健康食品・健康器具と
一生懸命になって
飲んだり、鍛えたりと
肉体のみにポイントを
置いていますが
大切なのは
心であるのです。
心の持ち方ひとつなのです。
心をどのベクトルに
向けるかで
死後の生もまた
次の肉体としての生にも
影響してくるのです。
これが後生の一大事と
言っているのです。
この一大事に備えて
今、何をあなたは
しているのか
どうかなのです。
絶対の大安心になるには
今、どのような状態で
あらねばならないか
なのです。
それでは親鸞聖人の
和讃の4行目に戻ります。
「虚仮の行(こけのぎょう)
とぞなづけたる」とは、
「虚仮の行」とは、
「行」とは善のことなので、
ウソ偽りの善である
ということです。
「修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる」
毒まじりの善だから、
ウソ偽りの善なのだ
ということです。
善をする時は、世のため、
人のためといいます。
「人」と「為」は、
一つの漢字にすると、
「偽」となります。
得てして人の為と
声高々に宣伝している人や
会社には偽者が多いのでは
ないでしょうか?
結局、
人の為といいながら
人の為ではなくて、
自分の為に
やっているということです。
善を為そうとすると
そこには毒交じりの心
ウソ・偽りの善しか
行わなかった親鸞であった!
と結んでいるのです。
私たちも
真に心しなければ
ならないお言葉で
あると思います。
生かしていただいて
有難うございます。
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角田 政治
携帯番号:080-3085-4801
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Blog:「もう一つの今」http://sinrikenkyu.blogspot.jp/
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