昨日は
どんな人にも等しく
訪れるところの“死”について
お釈迦さまが説いた
大無量寿経の一行
大命将に
終らんとして
悔懼
交至る。(大無量寿経)
臨終の際の苦悩の様子を
お伝えしました。
そして、
スティーブ・ジョブズさんの
“死”を常に意識した人生
「今日が人生最後の日
だったらと思って生きる!}
さらに
自らに内在する神の存在を
こう表現していました。
「悟りとは、人間の中に
神が入り来たりて、
そこで神自身が
自己を意識することが
悟りである。
この意識は、
すべての人間の
意識の底に絶えず存在する、
超意識とも称する意識である。」
上記を中心に
書き進めました。
このジョブズさんの
仰っていることは
いつもこのブログに
書いていることです。
何回も書いていることですが
仏教の根幹である
因縁果の道理を
振り返ってみますと
今の自分の現れは
どういう状態であっても
過去に蒔いた種(行為)の
結果であります。
それ以外の何ものでも
ありません。
スイカの種を蒔けば
土や水や太陽や肥料
という縁を得て、
スイカという果実になります。
大根の種を蒔いて、
スイカが現れることもなければ、
スイカの種を蒔いて
大根は現れることはないのと同様に
私たちの運命というものも
自らが為した行為によるものです。
これは千に一つ万に一つも
例外はありません。
であるならば
運命を変えたいというのならば
今、どんな種子を蒔いたらいいのか
選択しなければなりません。
それには
限・耳・鼻・舌・身という
五感という肉体の感覚器官を
越えたところの意識並びに
ユングさんや
フロイトさんたちが唱えた
無意識や潜在意識の領域
そして、
ジョブズさんが言う、
そのさらに奥にある超意識と
言うもの。
真なる我(真我・神我)
というものを感じることが
不可欠になってきます。
ここで
仏教の“八識”という教えの中に
ヒントがありますので
それを書き進めながら
“死”の持つ意味について
さらに考察を深めて
いきたいと思います。
この“八識”について
ロボット博士と呼ばれている
ロボットコンテストの
提案者である
東京工業大学の
森 政弘名誉教授は
こう述べています。
『仏教では八識に基づいて
心理の詳細巧妙な解析を
展開しており、
その精緻さには
驚くべきものがある。』
森博士は「念忘解」という
問題解決法を提唱しています。
大変、興味深い観点なのですが
今日のテーマと違いますので
いずれ、紹介させていただきます。
一言で言えば
まず念じる、
次に忘れる、
すると解ける、
というものです。
これも仏教の心理分析が
基本になっていることは
間違いないと思います。
それでは、八識に進みます。
心の構造を詳細にして
教えられたのが八識です。
仏教では、心を8つに分けて、
八識と教えられています。
(1) 眼識(げんしき)
(2) 耳識(に し き)
(3) 鼻識(び し き)
(4) 舌識(ぜっしき)
(5) 身識(しんしき)
(6) 意識(い し き)
(7) 末那識(まなしき)
(8) 阿頼耶識(あらやしき)
眼識とは、
色や形を見分ける心です。
耳識とは、
音を聞き分ける心です。
鼻識とは、
匂いをかぎ分ける心です。
舌識とは、
味を見分ける心です。
身識とは、
寒い、あたたかい。
痛い、気持ちいいという
肌触りを感ずる心です。
ここまでを
「前五識」と呼びます。
「前五識」の特徴としては
個人差があるということです。
それと、継続しないと
いうことです。
そして
意識とは
前五識を統制して、
物事を覚えたり、考えたり、
命令を出すことができる心です。
ところが私たちは
意識の指示や命令とは
明らかに違う行動を
起こさせる心がある
自分では自覚がないのに
つい出てしまうものが
厳然としてあります。
これは八識の中の
末那識・阿頼耶識という
領域の心があるから
発生すると言っています。
末那識は
自我がらなる執着が
蓄えられている心であり、
今日はこの程度で
説明は終わりますが
私たちに取って
とても大切な心
阿頼耶識について
詳しく書いていきます。
この阿頼耶識の「アラーヤ」とは
蔵のことです。
ヒマラヤ山脈のヒマラヤの
語源は、ヒムアラーヤで
ヒムは雪それにアラーヤで
「雪の蔵」ということです。
阿頼耶識とは、
蔵の心ということで、
「蔵識」ともいわれます。
例えば
今のように保険等がない時代は
寝食や日常のことをする
母屋というスペースがあり
それと独立して
どっしりと構えて建っている
蔵がありました。
その蔵の中には小判や
いつでも
換金することができる
財宝や骨董品並びに
何かがあっても
暫くは食いつなぐことができる
お米とか醤油・味噌等の
保存食等
大切なものをしまって
ある場所がありました。
もし、もらい火をして
母屋が焼けたり
地震や水害、あらゆる
天変地異などが来ても
びくともしない構造に
なっていました。
裸同然のように
すべてを失っても
その蓄えている蔵から
お金を取り出して
再び家も建てられるし
商売も再開できます。
これと同じように
私たちにもこの蔵の心が
厳然としてあるのです。
それが
阿頼耶識であります。
私たちの肉体は
生まれた時にできて、
死ねば滅びます。
ところが、
この阿頼耶識というのは、
肉体が生まれる前から、
続いてきて、
また肉体がほろびても、
消えることがありません。
そういう私たちの
永遠の生命を仏教では
阿頼耶識といっているのです。
前述したように
因縁果の道理とは
自分の蒔いた種(為した行為)は
必ず結果を生んでいく
と言いました。
しかし、お釈迦さまは
こうも仰っています。
人間は
『宿業を因として、父母を縁として
産まれているのだ』
この言葉の意味するところは
宿業とは生まれる前の
過去世のことです。
私たちは過去世を因として
とは
もし、過去世にした行いが
肉体を持っている間に
現れないとしたとしても
私たちが何か行いをしたならば、
それが消えることのない、
不滅の業力(行為の力)となって
阿頼耶識に蓄えらるのです。
それが因として
次の生に現れてきます。
それが父母を縁としてに
続くのです。
皆、父母は選べないと言っています。
しかし、真実は選んできます。
阿頼耶識の心が働くのです。
男女の違い
その中でも
なぜ長男で生まれたのか
次女で産まれたのか
国籍の違い
なぜ、日本人で産まれたのか
アメリカ人なのか
なぜ、障害者として
なぜ、超貧困の環境に
なぜ、産まれて直ぐ死んだり
なぜ、なぜ、ばぜ?の
連続だと思います。
これだけを見たら
不公平ではないですか?
しかし、これは厳然とした
事実であるのです。
自らの為した行為(業)は
逃れることができない
エネルギー(力
なのです。
ですから、阿頼耶識のことを
別名、業識ともいいます。
そうやって、
私たちの消えることのない
不滅の阿頼耶識に、
不滅の業力がおさまります。
これを「業種子」(ごうしゅうじ
と読みます)
ともいわれます。
これは目には見えませんが、
とてつもない力を持っていて、
やがて良くも悪くも
運命の花を咲かせるのです。
私たちが、
もし善い行いをすれば、
それは善業力となって、
阿頼耶識の中に蓄えられます。
そして私たちを善い方向、
幸せな方向へと導きます。
逆に私たちが悪い行いをすれば、
それは目には見えませんが、
悪業力となって
阿頼耶識の中に蓄えられます。
そして消えることなく、
私たちを悪い方向、不幸な運命へと
引っ張っていくのです。
この宇宙に存在する
唯一の法則が
あなたの与えるものが、
あなたの受け取るものであります。
あなたの与えた喜びが、
あなたに喜びをもたらすように、
あなたが与えた悲しみや
苦しみ、心配事などは、
現実にその心配事を引きつけます。
これらは、寸分の狂いもなく
起こってきます。
すべては自分が原因で
すべては起こってくるのです。
自因自果なのです。
自我による私たちは
自ら蒔いた悪なるものを
他人に与えたとき
そのことを忘れている
ことが多くあります。
この阿頼耶識に蓄えられた
悪業力は決して忘れない
心なのです。
肉体がすべてと思い
自我のまま煩悩のままの
行いには
善悪を判断することが
曖昧なのです。
モノサシが独りよがりの
ものしかないのです。
阿頼耶識には
神仏からなる正しさの
基準が明確に備わっています。
正しいモノサシがあります。
従って、誤魔化しがきかないのです。
これが
スティーブ・ジョブズさんが
語ったところの
「悟りとは、人間の中に
神が入り来たりて、
そこで神自身が
自己を意識することが悟りである。
この意識は、
すべての人間の
意識の底に絶えず存在する、
超意識とも称する意識である。」
だと思うのです。
私たちには内在する神なる我が
備わっています。
それは、阿頼耶識のことでも
あります。
そこの領域には
正しさの基準、
正しいモノサシがあります。
今、この瞬間
その領域とコンタクト
することができます。
すべては自らの内に
答えがあるのです。
インスピレーションを
得ることです。
その領域には
無限の叡智が
満ち溢れているのです。
生かしていただいて有難うございます。