2014年6月2日月曜日

“死”の持つ意味について

昨日(6月1日)はブログを

休ませていただきました。



私の女房の一番下の弟さんが

亡くなりました。54歳でした。



5月30日深夜なのか

翌31日未明なのか

わかりませんが

31日の朝に

直ぐ近くに住んでいらっしゃる

87歳になるお母さんか

長女であるお姉さんかが

冷たくなっている

弟さんを発見したようです。



四国に嫁いでいる

女房の妹さんから

こちらに向かう

新幹線の車中から

私宛にメールが入り

はじめて彼の死を知りました。

私の家にもお姉さんから電話が

入ったようですが

気がつきませんでしたが

留守番電話に残って

いたのを後から確認しました。



その弟さんは

1年半程前から舌癌を

患っていました。

舌を切除し言葉を失い

その後の会話は

メモとペンによるものに

変わりました。



病気をしてから

手術をして

その後の入院生活や

退院後の自宅での生活等

書くことは多岐にわたり

沢山ありますが、

今日はそのことには

触れないでおこうと思います。



今週は彼の葬儀等

関わることが多いので

毎日は書けないと思いますが



今日から何回かは

タイトルにある通り

読者の皆さまにとっても

決して避けることの

できない“死”という

身近でありながら

何故か、遠くに追いやっている

存在の持つ意味について

書いていきたいと思います。



今回の彼(弟さん)の死は

私にとっては

ある程度、覚悟をしていた

出来事でありました。

と言いますのは



彼は、既に医師から

余命宣告を受けていたのです。

彼の死は、余命宣告の

宣告された日から

3週間過ぎた頃に

訪れました。



宣告日の5月9日

このブログに彼を念頭において

メッセージを送りました。

それが5月9日に書いた

“自らの実相を観ること”です。



それを読んでくれて

彼から、こんなメールが

届きました。



“毎日、「もう一つの今」の

メール有難うございます。

きょうで、主治医の仰る

余命がゼロになりました。

だけど、ひどい風邪を

ひいてしまいましたが、

何とか生きています。

これで余命もリセットされた

気分です。

蛇の生殺し感は残ります。

これからも応援お願いいたします。“



これが、その日の

彼の返信メールです。



私は数ヶ月前から

意識的に彼を念頭において

このブログを書いていました。

読者にも共有できると

思ったからです。



もう一度

その日の「もう一つの今」の

“自らの実相を観ること”を

再掲載したいと思います。

既に読んでいられる方も

まだ、読んでいない方も

是非、読んでいただきたい

観点だからです、



“自らの実相を観ること”



今日は残りの人生の最初の日を

迎えました。

と言うことは

今日は誕生日であり、

さらに今日以降、

いつかは必ず死ぬことに

なります。

これは、予言です!(笑)

この予言は、

絶対に外れません!

断言します。



しかし、死ぬといっても

永遠の生命が

今のお借りしている

肉体から抜けるに

過ぎないのですが。



しかし、

肉体を持っているときに

肉体のみを我として

生きた人たちの場合

生命の意識がはっきりと

あるものですから



自分が死んだものやら

いきているものやら

訳のわからない状態が続き

戸惑ってしまうようです。



そのために四十九日間の

現実界に留まる時間として

猶予期間を与えられます。



この期間に

自分がもう

肉体存在ではないこと



しかし。確かな実感として

生きているという意識上の

感覚が段々と明瞭に

なってきます。



肉体の時は

洋服の上から

痒いところを掻くような

ものでしたが、



肉体が無くなりますと

その洋服が無いのですから

意識の感覚が何倍何十倍にも

なってきますので

自分が生前に為した行為を

細部に到るまで

まるで映画のシーンを見るが如く

ありありと思い出すことに

なります。



例え、自分が忘れている

ようなことでも

見せられるようになりますので

誤魔化しは一切きかないのです。



ですから生前に

自分の内在する良心など

まるで、存在しないように

振舞った場合は



その行動の結果

人に与えた心の痛みや苦しみを

自分自身が増幅して

その痛みや、その苦痛を

感じなければならないことに

なっています。



誰かが罰を与えるのではなく

自分自身が

肉体を喪って初めて

自我(偽我)の意識が

徐々に薄れてきて

本来、誰にでも

備わっていたところの

真我(神我)の意識が

現れてくるのです。



その自分の良心が

自分の行いを裁くことに

なるのです。



自らが

一生懸命になって

蓋をしていたこの良心は

誰も誤魔化すことは

できないのです。



良心に反する行為は

良心によって

清算されるのです。



勿論

人に喜びを与えたり

良心に沿った生き方を

した場合においては

祝福されます。



その良心に反する行為

並びに良心に沿った

行為を秤にかけ

どちらに重きを置いた人生を

歩んだのかを決定し

四十九日の後その後の

自らの赴く波長領域へと

自らが選択をすることに

なります。



これは、肉体の死後。

例外なく行われることです。



死に逝くほとんどの人々は

この肉体のある時に

「もっと人の為になることを

やっておきたかった!」と

心から思い反省して

涙を流すのです。



誰でもこの肉体を

脱ぐときが必ず来ます!

そうしたら私たちが

この世限りの

物質に収まっている

存在なんかで無いことは

誰でも直ぐ分かり

思い知らされるのです。



私たちは永遠なる生命を持つ

無限なる存在です。

永遠不滅なのです。

全知全能の存在なのです。



そんな偉大なものを

与えられているのに

なぜ、一時的な享楽に

現を抜かしているのですか?



他を責め罵っているのですか?

分離をして戦っているのですか?



自らの生命の実相を

自覚することです。



自らの生命の実相を

自覚するとは



自らの内に大いなる宝が

備わっていることを知ると

いうことです。



その大いなる宝は

使っても使っても

減ることの無い

無限なる宝です。



無限なる宝は

愛であり

光であり

善であり

慈しみや

優しさです。



愛は与えても与えても

尽きることの無い

与えれば与えるほど

増え続け

世界を穏やかにする力です。



光は与えても与えても

尽きることの無い

与えれば与えるほど

世界を輝かせる力です。



善も

慈しみも

優しさも

与えれば与えるほど世界は

安心と平和に

包まれていきます。



私たちは

神仏の愛の法則によって

すべてを

受け取り済みなのです。

受け取っておいて

何で!

奥の奥に仕舞い込んで

ひとつも使おうと

しないのですか?



仕舞っておいてわざわざ

自分の心を

偽我の殻に閉じ込めて

自分の心を苦しめ

悲しませています。



偽者の我に騙されては

いけません!



怒りや

憎しみや

妬みや

嫉み

貪りは

一次の歪みによる

感情に過ぎないのです。

そんなものを

受け取ってはなりません。



あなたの心を

無限なる愛で

無限なる光で

満たしていくのです。

そうすれば

あなたの内にある

神性が発露して

喜びと思いやりの

現状が現れてくるのです。



見える現状ががらりと

変わっていくのです。



すべては

自分の心がけ次第なのです。



心は思いひとつです。

同時に違うことを

受け入れることは

できないのです。



今日はあなたの誕生日!



そして、今日以降、

あなたはいつ死んでも

おかしくないのです。



だとすると

今この時間を

心より抱きしめてください。

この瞬間は永遠なのです。



生かしていただいて

ありがとうございます。

続く