昨日は
“不思議”
“不可思議”から
また
その“不思議”から
“神通力”に
進んでいきました。
そして、
“不思議”な
はたらきを
現わす力のことを
“神通力”と言い、
“神”は霊妙な力
“通”は智慧という
意味で、
智慧によって
備わる
霊妙な力のことを
言うと伝えました。
その智慧を得るには
自己を見つめ
そして自我と
真正面に向き合い
自らの
苦悩の因である。
煩悩を
仏の正しき法鏡に
照らし
正視する。
その法鏡が
輝いている分
自らの心の中の影は
ハッキリとして
くるのです。
自らの悪性を
自覚するのです。
お釈迦さまが
仰った
心、常に悪を念じ
口、常に悪を言い
身、常に悪を行い
曽つて(かつて)
一つも善を
したことがなかった。
ことに気づくのです。
私もそうでしたが、
この自覚が中々
進まないのです。
自らの醜さを
肯定するのですから、
簡単には
いきません。
お釈迦さまは
仏の覚りを得た方
であります。
そのお釈迦さまが
確かに言って
おられる。
曽無一善ということ
かつて一つの善も
やってこなかったと
断定されて
いるのです。
私のように
若い頃から
光明思想を
学んできた
人間にとっては
とても
組する
ことができない
部分でありました。
光明思想は
自分の実相しか
みつめていきません。
本来神の子ですから、
完全円満が実相です。
現われているものは
仮相です。
仮相は実体が
ありません。
本質だけを追い続け
肯定と感謝の連続です。
勿論、
それだけではなく
反省と
いうこともします。
しかし、
どんな道もそうですが、
極める方は
そうたくさんは
いないのです。
どうしても
あなたは悪だと
言われても
容認できないのです。
「なんでそういう
見方しかできないの?」
となってしまうのです。
「光を見つめ続ければ
光明実相の世界が
現出してくるのだ!」
と言うわけであります。
これは正しいです。
同じことなのです。
違ったことは
言っていないのです。
どちらも
まだ自分が
完全
ではないだけです。
未熟なだけなのです。
未熟な部分
正確に真理を
掴んで
いないだけです。
人間は
欲、欲、欲の
「もっと欲しい
もっと欲しい!」
と、キリがなく求め
続けています。
しかし
肉体生命は
今日か明日か
いつ死ぬかは
誰も知らない
キリのある生命です。
キリのある人生を
キリのない欲で
追いかけて
いくのですから
短い人生では
追いつかないのです。
欲は満たすことが
できないまま
人は死んでいく
ことになります。
だからこの世は
幻想であり
仮相の世界なのです。
自我が中心の
世界です。
自我は偽者の自分
仮相の自分です。
お釈迦さまは
この偽者の心を
自覚しなさいと
仰っています。
光明思想は
それは
仮相の
自分であるから
そこに捉われないで
実相をこそ
見つめていきなさいと
言っています。
一躍超入であるのです。
しかし、実際は
この世で
生きている訳ですから
光明思想を
学んでいる
からといって、
ふとした瞬間に
怒りもでます。
嫉妬心もでます。
恨みなどの感情が
反射的に
湧き上がってくる
ことがあります。
しかし
その感情を表に
出さない限り
「誰でも
そんなものだ!」と
うやむやにして
しまいます。
誰かを殺したいと
思っても
殺さない限り
この世では
罪にはなりません。
「殺してやる!」
と口に出しても
すぐには
逮捕されません。
最近では
脅迫罪とか
侮辱罪とか
ありますので
後からは捕まるかも
知れませんが
法律では
そうですが、
仏教は心を
すべての元凶で
あるとします。
口で悪く言うのも
身体で悪を行うのも
心が命令した
からであり、
口や身体は
心の支配下に
あるからです。
そうやって
その心の重さを
受け止めず
人間のモノサシで
計った。
浅はかな人間知で
判断して
誤魔化して
しまうのです。
そのために
自らの業の深さに
気づくことなく
過ぎていきます。
そんな訳ですから
都度解決しないまま
過ぎていきますので、
同じところを
入ったり来たり
しまうのです。
自分はやっぱり
善い
人間のままですから
対象の相手に
問題があることに
なります。
しかし、自分は
大人だから
忍耐こそ寛容と
思って我慢をする。
確かにその場は
引きずらないで
済みます。
しかし、それは
真の解決では
ありませんから、
心の中はそのことを
いつまでも
忘れることは
ないのです。
スッキリしない心が
そこには
あるだけです。
自分が悪いという
ことを思って
いないのですから
仕方ありません。
自分の真実の姿を
見つめるのは
大変辛いことです。
しかし、
仏の高みにたって
自らを見つめて
いくことは
極めて大切なことです。
自分の醜さが
浮き彫りになって
くるのですから
苦しいです。
お釈迦さまの
曽無一善
(ぞうむいちぜん)
は本当だった。
又、親鸞聖人の
言われた
「さるべき
業縁の催せば、
如何なる
振舞いもすべし」
という
歎異抄の言葉は
本当だった。
と思い知らされるのです。
そのことを
自覚し
素直に受け入れた時、
人は涙するのです。
慈雨が
落ちてくるのです。
どんな人も
責めるものではない
その人も
私自身であった。
相手を
どうしようもない
悪人だと見ている
自分が
悪人だったのだ。
相手を恐ろしい心の
持ち主だと見ている
自分が恐ろしい心の
持ち主であった。
さるべき業縁が
あれば
どんな悪でもする
自分であった。
と思えるので
あります。
そこに真の
慈悲心が
湧いてくるのでは
ないでしょうか!?
自も他も
別のものではない
自他一体である。
同じように
煩悩のまま
肉体良しのまま
苦しみの道を
歩んでおられる。
私たちには
遍く仏の光明が
照らされているのだ。
しかし、
今はその光明に
気づいていない
だけなのだ。
その光明に
気づいたとき
闇は消え去るしか
ないのである。
その闇は
無明の闇であった。
ただ明かりが無い
だけであった。
偉大なる光明
燦然と輝くとき
私たちは
絶対崩れることのない
幸福に到れるのだ。
なにものをも
怖れない
大安心の境地
そして
永遠の喜びが
湧き上がってくるのだ。
今まで苦悩の
根元だと
思っていたのは
小さな小さな
微細な自我の心で
あったのです。
と転じていくのです。
生かしていただいて
有難うございます。
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角田 政治
携帯番号:080-3085-4801
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Blog:「もう一つの今」http://sinrikenkyu.blogspot.jp/
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