2014年9月15日月曜日

“無常観”とは5

昨日も
“無常観”について
考察を深めて
まいりました。
 
私たちは
無常なるこの世で
永遠に生きるが
如く
毎日を過ごして
います。
 
明日にでも、
この生命が
途切れるやも
知れないのにです。
 
どうしてなの
でしょうか?
 
勿論、
永遠の生命と
いうのは
事実では
あります。
 
しかし、
今回の肉体生命の
決算は誰でも
行わなければ
ならない訳です。
 
そして、
昨日申し上げました
「盲亀浮木の譬喩」
にあるが如く
人間に生まれる
ことは
大変難しいのです。
 
生命は
この
地球上だけでも
どれだけあるのか
測り知れない
わけです。
多いと言っても
人間はたかだか
70億人に
過ぎません。
 
はつかねずみは
20日くらいで
子どもを産むこと
ができ、
一回で何匹も
子どもを産むことが
できると言われて
います。
 
一つがいのねずみが
一年だけで
2百数十億あまりに
なるのだそうです。
 
一種類でさえ
こうなんですから、
どれだけの生命が
地球上にいるか
わかりません。
 
生まれがたい
人間に生まれた
それも
気が遠くなるほど
難しいことなのに
 
その人間に
生まれたという
喜びの心が
湧いてこないのは
 
そんな貴重な
存在であるという
ことの自覚が
ないからなんだと
思います。
 
この次は
また、生命を
得たとしても
人間ではないかも
知れないのにです。
 
それなのに
どうして
なんでしょう?
 
それは
昨日も申し上げ
ましたが、
 
生きる意味が
分からない
からなのです。
 
お釈迦さまの
お言葉である。
 
「人身受け難し、
今已に受く。」
 
その
生まれがたい
人間に生まれた
ということは、
 
人間に
生まれなければ
果たせない。
重大な使命がある。
 
それを果たす為に
生まれてきた
ということです。
 
しかも、
そんな難しい
人間に生まれた
“今”というのは、
大変貴重な瞬間
であるのです。
 
こんなことは、
何億年に
一度しか
めぐってこない
絶対の
チャンスで
あるのです。
 
しかし
このチャンスは
“今”にしかない
チャンスで
あります。
いつまでも
あるわけでは
ありません。
 
この世は
無常なのですから。
 
一休禅師は
このように
仰っています。
 
門松や
冥土の旅の
一里塚 
目出度くもあり
目出度くもなし。」
 
「冥土」とは、
後生のことです。
一日生きたと
言うことは
死に近づくと
いうことです。
 
そうして
何もしないまま
生きていきます。
大晦日を迎え
明日は正月です。
門松が飾られます。
 
私たちは
“死”に向かって
毎日を
行進しています。
冥土への旅なのです。
 
正月を迎えて
皆、口々に
「おめでとう
ございます。」と
言います。
 
でもまた一歩
“死”に近づいた
わけですから
目出度くもあり
目出度くもない
のです。
 
門松が
“死”への
カウントダウンの
一里塚であるのです。
 
そうやって
私たちは、
“死”へ向かって
進んでいるのです。
 
そして
あっという間に
人生は
終わって
しまうのです。
 
そんな状態で
毎日を送って
いるのが
私たちです。
 
どこに行くのか
あてもないまま
ぶらり一人旅では
ないですが
それもたまには
いいでしょうが、
毎日では
困ってしまいます。
 
もっとも大事な
ことは
どこに行こう
としているのか
という目的地です。
 
“人生は苦なり”と
お釈迦さまは
仰いました。
 
人生には
でこぼこ道もあれば
山越え谷越え
茨の道を
歩いていかなければ
なりません。
 
でも向かう
目的地さえあれば、
どんな悪路さえ
着いてしまえば
その苦労も
報われます。
 
目的地のないまま
歩き続けるとしたら、
“苦”ばかりの
人生で
最期は死んで
行くのみです。
 
目的地がわかれば
それは後、
どのくらいの距離を
歩むのか?
10キロなのか?
100キロなのか?
300キロなのか?
その距離によって
どう歩くかが
決まってくるのです。
 
10キロならば、
一気に歩ききって
しまおうと思うかも
しれませんし、
 
300キロならば、
力を温存しながら
歩くでしょう。
 
途中、途中で
休憩を入れたり
食料を補給したり
泊まる場所を
選定したり
苦しまないように
工夫しながら
歩けるでしょう。
 
私たちの人生も
同じです。
生きる目的が
分からなければ、
生き方も
分かりません。
 
親鸞聖人は
「教行信証」の中で
こう仰っています。
 
「真・仮を
知らざるによりて
如来広大の
恩徳を迷失す。」
 
このお言葉の意味は
 
「真」とは
「人生の目的」
のことです。
 
「仮」とは
「生きる手段」
のことです。
 
「知らざる」とは
何が真で
何が仮かを
知らないと
言うことです。
 
生きる目的と
生きる手段の
判断ができていない。
と言っています。
 
「よりて」とは
だから
 
「如来広大の恩徳」
とは、
生命の
歓喜のことです。
 
「迷失す」とは、
ないのだと
いうことです。
 
生きる目的と
手段の
判断がつかない、
だから
生命の歓喜が
ないのだ、
と仰って
おられるのです。
 
私たちは
生きる
手段ばかりに
あくせくして
生きる目的を
持たないまま
人生を
歩き続けています。
 
手段とは
目的を
果たすための
ものです。
 
目的がなければ
手段の意味が
なくなって
しまいます。
 
それでは
目的とは
何でしょうか?
 
これから
共に学んで
いきたいと
思います。
 
生かしていただいて
有難うございます。
 
 
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角田 政治
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