2014年9月14日日曜日

“無常観”とは4

無常を観ずるは
菩提心の一(はじめ)
なり
 
この世のもの
すべては
移ろいゆき
私たちの生命も
あっと言う間に
終わって
いくのです。
 
その
“死”とともに
この世で得た
財産や
地位や
名誉や
家族までも
置いて行かねば
なりません。
 
この“無常観”を
今、真に
見つめて行く
ことは
この限り在る
人生の中で
 
とても重要な
ことであるのです。
 
無常を
見つめることが、
本当の幸福の
第一歩である
ということです。
 
お釈迦様は
大無量寿経に
 
「世人薄俗
(はくぞく)にして、
共に
不急のことを
あらそう。」
 
と説かれています。
 
「世人」とは、
世の中の人、
私たちのことです。
 
「薄俗」とは、
「薄」とは
薄っぺら
浅薄ということです。
 
「俗」とは俗っぽい
通俗的
ということです。
 
共に、
「不急のことを」
とは
急がなくても
いいことを
「あらそう。」
争っている。
と言っています。
 
「世の中の人は、
(なぜ生きるか
という
生きる目的を
知らずに、)
 
どう生きるか
という
生きる手段
ばかりに、
目先のこと
ばかりに
心を奪われて、
 
人生の
大事を知らない。」
 
とお釈迦さまは
説かれて
おられるのです。
 
「この世の
どんなことも
長くは続かない
のですよ!
 
それらは
浅薄で
通俗的に
過ぎないのですよ!
 
そういうものに
翻弄されて
いいのですか?
 
必ず果たさなければ
ならないことを
後回しにして
間に合いますか?
 
“死”はすぐ
そこに迫っている
のですよ!」
 
と警告されて
おられるのです。
 
一休禅師は
浅薄で
通俗的な
人間のことを
皮肉を込めて
こう詠っています。
 
「食て寝て起きて
糞たれて
子は親となる
子は親となる。」
 
「食べては出し、
寝ては起きるの
くりかえし。
 
そうやって
毎日毎日
同じことを
繰り返して
いるうちに、
 
その子は
親となり、
そして、また
その子供が
親となる。
 
そうして
いつの間にか
人生は
終わって
行くのだ!」
 
と、一休禅師も
痛烈に警告
しておられるの
であります。
 
あなたは
このお釈迦さまと
一休禅師の
警告を
どう受け止められ
ますでしょうか?
 
さらに
お釈迦さまは
人間に生まれる
ことの
いかに難しい
ことかを
こう表現されて
いらっしゃいます。
 
「人身受け難し、
今已に受く。
 
仏法聞き難し、
今已に聞く。
 
この身
今生に向って
度せずんば、
さらに
いずれの生に
向ってか、
この身を度せん。」
 
「人身受け難し」
とは、
人間に生まれる
ことは難しい。
 
ところがその、
「生まれることの
難しい人間に
生まれることが
できて良かった」
という
喜びの言葉が、
「人身受け難し、
今已に受く」
 
という
言葉の中に
集約されています。
 
あなたは
人間に
生まれたことを
どう感じて
おられるでしょう?
 
ただ、両親の
肉体関係だけで
偶然に存在して
いるとは
このブログを
読んでいる
あなたですから
思ってはいない
ことは
知っています。
 
しかし、
「よくぞ、
人間に生まれた。
うれしいな!
よかったな!
有り難いな!」
と喜んでいますか?
 
まさしく、
有り難いのです。
有り難いは
仏教用語です。
 
有ることが
難しいから
有り難いのです。
 
生かしていただいて
有難うございます。
であるのです。
 
それを
極く当たり前に
思ったり、
 
少しでも
苦難にあった時
人間に
生まれたことを
後悔したり
 
場合によっては
恨んだりします。
 
あれ程望んで
人間に生まれて
きているのにも
関わらずと言うのが
真相なのです。
 
最初から
答が解っていたら
修行にならない
でしょう!
 
だから、
顕在的には
忘れています。
 
しかし、
潜在意識下の
阿頼耶識には
すべての
あなたの記録は
一つ残らず
蓄えられて
いるのです。
 
あなたが
その事実を認めて
心を澄まし
求め続ければ
引き出すことが
できるのです。
 
イエスさまも
「求め続けよ
さらば
与えられん!」
と仰っています。
 
お釈迦さまは
「人間に
生まれるという
ことは
大変有ることは
難しいのだから
それを既に今、
受けている事実
そのものに
感謝をし
喜ばなければ
ならないことだよ。」
と教えて
おられるのです。
 
それでは
どれだけ
人間に
生まれることは
難しいのか
ということを
 
お釈迦さまが
阿難尊者
との問答で
教えられている
 
「雑阿含経」という
仏典の中の
有名なお話である
「盲亀浮木の譬喩」を
シェアしてください。
 
『あるとき
お釈迦さまは、
阿難尊者に
 
「阿難よ!
あなたは、
人間に生まれた
ことをどう
思っているか?」
と尋ねられました。
 
「はい、大変
喜んでおります。」
と答えると、
 
「ではどれくらい
喜んでいるか?」
と聞かれて
阿難尊者が答えに
窮していると
 
お釈迦さまは
次のように
お話をされたのです。
 
「どこまでも続く
この果てしない
大海の底に、
一匹の年老いた
目の見えない
亀がいる。
 
その亀は
100年に一度
波の上に
浮かび上がるのだ。
 
その大海には
一本の
浮木が流れていて
その木の真ん中に
一つの小さな穴が
あいている。
 
100年に一度
浮かんだこの盲亀が
丁度、この浮木の
穴に頭を入れる
ことが一度でも
あると思うか?」
 
阿難尊者は
「そんなことは
ほとんど
考えられません。」
と答えますと、
 
お釈迦さまは
「誰でも、
そんなことは
あり得ないと
思うだろう。
しかし、
全くないとは
言い切れない。」
と話され、
続けまして、
 
「ところが阿難よ、
人間に生まれる
ということは、
 
この年老いた盲亀が、
流れている
この浮木の
小さな穴に、
頭を入れる
ことよりも
さらに
あり得ないぐらい
難しいことなのだ。」
と仰って
おられるのです。
 
いかがでしょうか?
 
お釈迦さまは
それだけ
生まれることが
難しい人間に
生まれることが
できたのだから
喜ばなければ
いけないよ!
と仰ってくれて
いるのです。
 
それなのに
喜んでいる人間は
なぜ、
少ないのでしょうか?
 
それは、
何のために
生まれてきたのか?
 
何のために
生きているのか?
 
なぜ苦しくても
生きねばならないのか?
ということが
分からないから
ではないでしょうか!
 
その意味を
このブログで
共に考えて
いきたいと思います。
 
生かしていただいて
有難うございます。
 
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角田 政治
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