暫く
仏教用語を
続けさせて
頂いていますが、
当然のことと言えば
当然なのですが
仏教から
発生した
言葉でありますので、
中々、深い意味が
ありますね。
私は
起きて
仏壇の前に坐り
瞑想するのが
日課になっています。
その後
花に水をあげたり
ごみの日は
ごみを
出しにいったり
しています。
その時間内に
今日のブログの
テーマが
ふと浮いてきます。
そしてPCに
向かうのです。
不思議なのですが
初めから
テーマを決めて
書いたことは
ありません。
毎朝、
この時間になると
大体、瞑想中に
浮かぶのです。
と言うことで
今日は
“不思議”という
ワードが浮かんで
きましたので、
“不思議”という
言葉から
ランダムに
書いていこうと
思います。
“不思議”という
言葉も
仏教語です。
仏教では
“不可思議”と
言います。
“不”も”不可“も
否定ですから
同じです。
ただ略しただけです。
“思議”できない。
“思議”が不可なこと。
です。
“思議”は
思ったり、言葉に
したりすること
ですから、
“不思議”は
思ったり、言葉に
できない
ということです。
人間の知恵や
判断力の及ばない
ということが
“不可思議”の
意味です。
仏教に於ける
“不可思議”とは
仏の智慧に
照らして、
自己をみつめ、
一点凝視し、
生死(しょうじ)
苦悩の
無明の闇の生から
転じて
永遠に
変わることのない
大安心
大歓喜の生に
立たしめようとする、
仏の本願の
はたらきのことを
“不可思議”
と言うのです。
また
“不可思議”とは
10の八十乗という
数の単位でも
使われていますね。
“不思議”に
摩訶(まか)をつけて
“摩訶不思議”という
言葉も使いますが、
これは
サンスクリット語の
マハが語源で
偉大とか
優れている
という意味です。
“不思議”を
さらに強調している
言葉であります。
そして、
“不思議”な
はたらきを
現わす力のことを
“神通力”と
言いますが、
“神通”とは
“神”が霊妙な力
という意味で
“通”が智慧の
ことです。
智慧によって、
備わる霊妙な力
のことを
言います。
お釈迦さまの
初期の頃の
お弟子さんの中に
目連尊者という方が
おりました。
この方は
お釈迦さまの
十代弟子の一人で
神通力第一と
いわれた方です。
仏説盂蘭盆経
というお経が
ありますが、
このお経は
目連尊者が主人公
になっている
お経であります。
この中に
目連尊者が
その“神通力”を
使って
亡くなった母親の
あの世での
居場所を
観にいったという
話が出ています。
とても親孝行で
あった目連尊者は
母親のことを
偲んで
「今、母上は
どうして
おられるのだろうか?」
と思って
あの世を
観察したところ、
何と、母親は
餓鬼道という
欲の世界に
堕ちていたのです。
それは倒懸(とうけん)
と言って
さかさまに、
頭下足上
(ずげそくじょう)に
吊るされている
世界です。
骨と皮になっている
母の姿に悲哀して、
お鉢にご飯を盛って
母の口に入れようと
するのですが、
ボーッと炎になって
消えてしまうのです。
母親思いの
目連尊者は
あまりの悲しさに。
お釈迦さまに
「どうすれば、
母を救うことが
できましょうか?」
とお尋ねをします。
お釈迦さまは
「汝の母親は生前、
吝嗇(りんしょく)で
欲の深い人であった。
とても
そなた一人の力では
どうにも
及ぶものではない。
丁度、
夏安居(げあんご)
※ 雨安居(うあんご)
とも言う。
の最後の日に
(7月15日)
衆僧たちが
精舎に集まるので、
衆僧たちに
食べ物を布施をして
供養をすれば、
そなたの母親は
餓鬼道から
救われるだろう。」
と布施の功徳を
説いたのです。
お釈迦さまの
言われたとおり、
目連尊者は
衆僧たちに
食べ物を
施します。
そうしますと
目連尊者の母親は
餓鬼道から
救われたのです。
そのことを
目連尊者は喜んで
衆僧と一緒になって
踊ったというのが、
盆踊りの
起源となっていますし、
お盆の起源に
なったのです。
こういうお話です。
“不思議”から
“神通力”に至り
お盆の話に
なりました。
一般的に
“神通力”と言うと
何か特別なことを
することができる
力のように
思っておられる方が
多いのですが、
そうではありません。
一定の真理の
修行を経て
心を清めたときに
出る力とでも
言いましょうか。
慈悲深きがゆえに
起こる力のことです。
慈悲から起因する
智慧によって
霊妙な力が
出てくるのです。
目連尊者は
親孝行の方でした
目連尊者の
「母を救って
さしあげたい!」
という
慈悲の神通によって
母親の
あの世での
ありさまを
凝視できたのです。
しかし、
いかに神通力第一
と言われた
目連尊者であっても
実際には
母親を
救うことは
できないのです。
仏の智慧を得て
慈悲の
実践行としての
衆僧への布施を
為して初めて
母親を救うことが
できたのです。
今の時代も
お釈迦さま在世中の
2600年前も
人の心は
どうしても
奇跡を追い求める
ものなのでしょうか!?
“神通力”のことを
“神変力”とも言います。
“じんぺんりき”と
読みます。
こちらの意味は
若干、奇跡に重きを
おいた意味で
使われています。
“不思議”な力によって
奇跡を現わすこと
として
使われていたようです。
こんなお釈迦さまの
お言葉が残っています。
「神変には害がある。
それよりも
人々を真実に導く
教化こそが
奇跡なのですよ。」
{お釈迦さまの
このへんの
お考えについては
このブログの
「“苦”から
転ずるためには18」
にも書いていますので
戻って
参照してください。}
このように
お釈迦さま自体は
寧ろ
そいう類の
奇跡的なことは
良しとして
いませんでした。
すべては
因果の道理に
立脚して
起こる結果は
すべて原因があって
原因を飛ばしては
何も
起こりえないのです。
従って
奇跡はないのです。
子を持った母親は
自分の子どもが
何を考えているか
分かると言います。
ある意味
神通力です。
子を愛するがゆえに
手を取るように
分かるのです。
愛は慈悲です。
慈悲の心こそが
“神通力”に
つながる源なのでは
ないかと
思うのです。
慈悲は
他の心を知ろうと
するはたらきです。
相手が
何に苦しんでいるか
わからないのに
相手を楽にして
あげることは
できないのです。
慈悲を
進めていくことが
何よりも
大切ということです。
生かしていただいて
有難うございます。
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角田 政治
携帯番号:080-3085-4801
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Blog:「もう一つの今」http://sinrikenkyu.blogspot.jp/
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