2014年9月13日土曜日

“無常観”とは3

昨日は
所用でブログを
休みましたので
 
一昨日に
引き続いて
“無常観”について
話を進めて
まいります。
 
“無常観”とは
無常を
感ずるのではなく
無常を観ずると
書いています。
 
親鸞聖人が
ご幼少の頃
4歳のとき父上が
8歳のとき母上が
お亡くなりに
なりました。
 
そのご両親の
死を通して
幼い親鸞聖人は
自らの“死”
というものを
観ずるように
なっていきます。
 
“死”は
無常の最終形で
あります。
 
無常を観ずるとは
すべてのものが
移り変わっていく
その様を
見つめると
いうことです。
 
この世は
諸行無常であります。
一切のものは
変化していく
ということです。
 
その
変化していくものを
目の色変えて
追い求めて
いるのが
私たちの姿です。
 
なぜ?
これ程までに
やっきになって
変わリ続けるものを
追い求めて
行くのでしょうか?
 
それぞれの
人たちが考え得る
この世で
最高といわれる
成功を
治めたとしても
 
最期は
“死”を持って
成功もろとも
得た成功の証し
財産や地位や
名誉やそして
家族までも
自分の手中から
滑り落ちて
いくのです。
 
人間は
こんなことを
追い求める
ためだけに
一生を捧げるの
だろうか?
 
何故?
生まれてきたの
だろうか?
 
人間に
生まれてきた
目的というものが
あるのではないか?
 
諸行無常を
つぶさに感じ
その無常なる
ものの実体を
見つめる
ことによって
 
それでは
変わらないものは
何であるのか?
それを
知るのです。
 
無常を観ずるは
菩提心の一(はじめ)
なり
とお釈迦さまは
仰っています。
 
移ろい行くものは
仮相であり
変わらないものが
実相です。
 
その実相を
掴むためには
この移ろいゆく
本性を自覚
しなければ
なりません。
 
その本性を
自覚しないまま
菩提は
定着しないのです。
 
菩提とは
本当の幸せ
変わらない幸せ
のことです。
 
本当の
不変なる
幸福になりたい
と願う心が
菩提心であります。
 
移り変わるものの
正体が何か
わからないまま
変わらないものを
知ることなど
できるわけが
ないのです。
 
真実は
私たちの実相は
真我なる
ものです。
 
真我とは
完全円満で
あります。
喜び
智慧
供給
調和
平安
という
すべての性質を
有するものです。
そして
それは
完全なわけですから、
無限であり、
永遠であります。
 
これひとつが
私たちの
実相であり
これ以外の
答えはないのです。
 
ですから
今、自分が
苦悩の中に
あるとしたら
それは
私たちが
仮相を実相と
思い込んで
迷妄の中に
あるからなのです。
 
その迷妄から
抜け出して
神仏の本質である
無限
永遠を
見ればいいのです。
 
ですから
それを深く
信じて
神仏と
一体になることです。
 
これが
正しい答えです。
 
私たちを
創ったのは
神仏なのですから
神仏が原因で
私たちが結果で
あります。
 
その原因である
神仏をこそ
見つめよという
ことであります。
 
しかし、
これは真実では
あるのですが、
 
そうであるから、
それだけを信じて
神仏に
一心集中しなさい。
 
と言っても
それで覚れる人は
多分少ないでしょう。
 
相当、
過去世においても
真理の探究を
していた方か
 
その素地が
元々あって
ある程度
熟されている方
以外は
難しいと思います。
 
今まで
真理を
探究されている
多くの方との
出会いがありました。
 
その人たちにも
やはり、
この世には
この世の物事の中で
迷妄はあるのです。
 
この世の
因果の道理が
厳密に
働いているのです。
 
“罪”についての、
お釈迦さまの
教えの中に
こういうのが
あります。
 
阿難尊者
(アーナンダ)が
釈迦さまに
“罪”ということ
について
お尋ねしました。

「罪と知りながら
犯す罪と
罪と知らないで
犯す罪と、
どちらの方が
罪が重い
のでしょう?」

お釈迦様は
どうお答えに
なったでしょう?

こうお答えに
なりました。
「罪を罪と
知らないままで
犯した罪の方が
重くて
そして、
恐ろしいのだ。」

「それは、
どうしてなので
しょうか?」
と阿難尊者が
尋ねると、

「阿難よ!
火の中に入れた
火箸が
あったとする。
 
それを焼火箸と
知って握る者と、

それを
焼火箸だと
知らないで
握る者とあったと
するならば、

どちらの者が
重い火傷を
すると思うか?」

とお釈迦さまは
聞き返されます。

阿難損者は
「それは、
焼火箸と知らないで
握った者の方が
よりひどい
火傷をいたします。」

と答えると
「その通りだ。
人は
自分の
していることが
罪悪だと
知らないままに、

いつも
その罪を
重ねているのだ。
 
それが
大変恐ろしく、
重い罪であるのだ。」

とお答えに
なっているのです。

私たちが罪悪だと
自覚して
いるものは、
ほんの一握りに
過ぎないのです。

ほとんどが
知らずに犯している
罪悪の方が
多いのです。
 
この世は
自分だけで
生きている世界
ではありません。
 
この世は
この世の
ルールもあります。
 
いろいろな
段階の
いろいろな
人たちが
雑多に集まって
いるのが
この世界です。
 
その中で
どれだけ
自分の罪に
気がついている
ことが
あるでしょうか?
 
ほとんどが
気づかないまま
犯している罪
と言っても
過言では
ありません。
 
それが
いかに多く
恐ろしい
ものであるか、
自覚するものは
少ないのです。
 
知らずにしている
わけですから
 
後生に
自分の
一生の行為を
見せられ
 
正しい基準に
照らして
自分自身を
審判する時が
あります。
 
これは例外なく
行われるのです。
 
今回の
肉体の生での
評価が
なければ
 
ただただ
肉体を生きた
ということだけに
終わって
しまいます。
 
それこそ
この肉体を持ち
生きる意味が
見出すことは
できないでしょう。
 
その時に
多くの人が
知らされるのは
 
いかに
自らが発した
あの念いが
あの一言が
あの行いが
 
人を傷つけ
苦悩を
与えていたかを
思い知らされる
のです。
 
肉体を
持っている時に
 
見ようと
しなかった
自覚しようと
しなかった
 
自らが発した罪悪に
苛まれるのです。
 
私たちの
肉体期間は
短いです。
あっという間に
終了します。
 
後生が
元々の住処です。
 
後生が
平安と喜びのままで
存在することが
できるのか。
 
お釈迦さまの
言うが如く
後悔と怖れが
繰り返し、
起こり続ける
世界に赴くのか。
 
それは、今
この肉体を
持っている時に
すべての
鍵が隠されて
いるのです。
 
生かしていただいて
有難うございます。
 
 
 
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角田 政治
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