2014年8月31日日曜日

真なる“自由”を得るために

昨日は
“譏嫌”(きげん)
について
学びました。
 
「当(まさ)に
“譏嫌”を護りて、
衆生をして
妄(みだり)に
過罪を起こさしめず」
 
とあるように
私たちも
人から
“譏り”を
受けることのない
自分と言うのを
形成して
行きたいもので
あります。
 
しばらくは
“機”を中心に
仏教を
学びましたが、
 
もうそう“機”に
関する言葉も
ないと
思いますので、
 
本日は
もっと自由に
仏教用語を
選んでいきたいと
思います。
 
と言うことで
“自由”という
言葉について
語ってみます。(笑)
 
“自由”
という言葉は
仏教のとても
重要な言葉です。
 
お釈迦さまが
入滅されんとして
おられる時の
お言葉に
このような有名な
お言葉があります。
 
いわば、
遺言とでも
言いましょうか
お釈迦さま
最期の
お言葉とされている
「涅槃経」の一説です。
 
お弟子さんの
阿難尊者
(アーナンダ)
に対して語った
言葉です。
 
「私の死後は、
自らを灯明とし、
自らを拠り所とし、
他を拠り所とせず、
法を灯明として、
法を拠り所として
他を拠り所とせず、
修行に励みなさい。」
と仰いました。
 
自灯明とは
文字通り
自らを灯明とする。
自らを
拠り所とする
わけですから
自らの灯明が
何なのかが
解らなければ
 
解らないまま
拠り所にしたならば、
「自分勝手にしなさい。」
とか
「自分が思うままに」
というふうに、
捉えないとも
限りません。
 
灯明とは何でしょう?
 
灯明とは仏性であり、
正しい
モノサシである
良心であり、
私が
常に言うところの
真我であります。
 
私たちは
この肉体を
喜ばせる(感受)
だけのままでいると
心は執らわれて(執着)
まいります。
 
この現象界には
不変のものは
何もありません。
実体が無いものに
執らわれて
いくわけですから、
心は苦悩を
彷徨うのです。
 
これが、
自我の心です。
偽者の心であります。
 
その偽者の心を
見つめて
法に照らして
炙りださなければ
なりません。
その欲の本性を
知るのです。
 
それが
法灯明であります。
法とは
お釈迦さまの
教えです。
その法を
拠り所として
 
いつしか、
人は真我に
目覚めるのです。
 
法灯明は
お釈迦さまが
灯してくれた
明かりです。
 
でも、その
明かりを見るのは
自分なのです。
 
お釈迦さまは
他の何ものをも
拠り所にしては
ならないと
仰っています。
 
お釈迦さまは
それは
徹底した方でした。
 
お釈迦さまの姿を
描くことさえ
禁じていました。
 
それは、
あらゆる
偶像を否定されて
いたと共に
個人崇拝も
否定したのであります。
 
ですから
自らを拠り所にし
法を拠り所に
して、
他の一切に依拠する
ことを良しと
しなかったのです。
 
すべての
他への依存は
自我の心が
そう
させているのです。
 
自我の心は
煩悩に
支配されています。
貪り
怒り
妬み
嫉み
恨みの心です。
苦しいからこそ
他へ依存するのです。
 
心がそれらに
支配されて
いるからこそ
さらに苦しみは
増して行くのです。
 
しかし、それを
自覚するものは
幸いです。
 
自覚したものは
法の明かりを
見るからです。
法を拠り所に
するしか道が
なくなるからです。
 
そしてお釈迦さまが
灯した明かりと
(法灯明)と
自灯明が溶け合う
のです。
 
自我の昇華とも
言うべき瞬間を
迎えるのです。
 
これが、
真の“自由”を
得るということで
あります。
 
長くなりましたが
“自由”とは
自灯明のことでも
あります。
 
自らを拠り所として
PCは変換しますが、
 
自らを由り所として
法を由り所として
と書いたのです。
 
それが“自由”という
言葉であります。
自らを
由り所とするのです。
自灯明のことです。
 
自灯明とは真我です。
法灯明とは真理です。
 
真に仰ぐべきは
自らの内の
真我であり
本物の法であります。
 
そのことに
気づくことこそが
真の“自由”人たる
所以では
ないでしょうか。
 
生かしていただいて
有難うございます。
 
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角田 政治
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