2014年8月28日木曜日

“経営”とは仏道なり

昨日は“経済”に
ついて
お話しました。
 
“経済”とは
仏教の目的である。
と言いました。
 
意図はして
いないのですが
“分別”の意味から
始まった
この展開も
進めてみれば
結局は
真理の探究にも
繋がっていますので、
もう少し
このパターンを
続けてみようと
思います。
 
今日は
“経済”と
関連付けて
“経営”について
お話しを
したいと思います。
 
“経営”という
言葉も
仏教から出た言葉で
あります。
 
“経営”の
“経”というのは
“経済”の説明でも
お話しましたが
縦糸のことです。
 
縦糸の筋が、
一本きっちりと
あることによって
布はしっかりとした
丈夫な布に
なっていくのです。
 
そのように
筋道が通っている
ことを意味します。
 
“経営”ですから
筋道だてた
営みとなります。
 
仏教で言えば
仏道と言う
一本道をただひたすら
求め続けることを
言います。
 
“経”は真理ですので。
真理を求め続ける
行為を意味します。
 
道元禅師の言葉に
こういうのがあります。
シェアしてください。
 
「仏道を
ならふというは、
自己をならふなり、
自己を
ならふというは、
自己をわするるなり。
自己を
わするるというは、
万法に証せらるるなり、
万法に
証せらるるというは、
自己の身心をして
脱落(とつらく)
せしむるなり。」
 
仏道をひたすらに
研鑽し
求め続けたならば、
自ずから
自己を徹底的に
見つめていくことに
なります。
その上で
出会う自己とは
無常の世で
まったく
捉えどころのない
実体など何もない
自己の
無根拠さばかりが
わかってくるのです。
法鏡に照らし出された
自己です。
 
しかしながら、
そのままで
成り立っている
不可思議な
自己をもまた
再発見して
行くのです。
 
その時
仏の
偉大なるはたらきが
感じられるように
なってくるのです。
 
仏道に限らず
私たちの仕事も
同じなのでは
ないでしょうか。
 
どんな仕事であれ
“道”として
捉えたならば。
 
ただひたすら
一本道に励み続けて
いくならば
 
自ずから
自分のこころと
向き合わなければ
なりません。
必然として
自己を見つめることに
なっていくのです。
 
そして
道元禅師曰く
“自己の身心をして
脱落(とつらく)
せしむるなり“
となるのです。
 
名経営者といわれる方や
あらゆる分野の名人と
言われる方は
口を揃えて
自らの未だ至らない
未熟を口にされます。
 
それは
自らの“道”を
ただひたすら
徹底的に研鑽し
努力精進し続けたから
到る心境だからです。
そこまでいかないと
真には解らないのだと
思います。
 
私は
「あれもこれも
私の功績だ!」
「わたしはこの道を
すべて習得した。」
「わたしは
この道の第一人者
である。」
「この道では
私の右に出る者は
一人もいない。}
 
とは言える筈など
ないのです。
 
それはすべて
自我によるもので
自我力であるのです。
それを
自力と勘違いして
おられる。
 
自我が持つ
自惚れ・慢の心です。
 
自力などないのです。
 
道元禅師は
自力信仰の
禅僧であります。
 
お釈迦さまの
説いた教えに基づいて
自己を徹底的に
見つめるのが
禅の修業です。
 
前にも書きましたが
坐禅の“坐”とは
人が土の上に二人
坐して
禅をするのではなく、
日常の自己(自我)と
もう一つの自己との
対話であるのです。
 
その
もう一つの自己こそ
仏性であるのです。
 
徹底的に
仏のこころを
見つめていくのです。
 
その対話を続けて
行くにつれ
その
本来の仏のこころと
かけ離れた自分を
知ることになります。
 
そして尚、
坐り続け見つめ続け
その差を
取っていく修行です。
差取り(覚り・悟り)
であります。
 
インドの達磨大師は
禅の始祖です。
 
達磨大師は
お寺の近くの
洞窟の岸壁に向かって
9年もの間
坐禅をし続けたと
伝えられています。
 
そのために
達磨大師の手足が
腐ってしまって
手足を失ったという
伝説があるくらいです。
 
私たちの知っている
だるまさんは
達磨大師が
モデルです。
手足がないですよね。
 
そこまでして
自分の中の仏と
出会うということで
自力信仰と
呼んでいます。
 
一方、
他力信仰は
一般的には
念仏を
唱えるだけで
救われるから
他力だと思われて
いますが。
 
それは違うのです。
念仏の意味を
取り違えています。
素直に
仏を念ずると
読めばいいのです。
 
自己の内にある
仏への
一心集中を
言っているのです。
 
ただひたすら
仏の本願で
あるところの
 
「すべての人々を
生まれてきて良かった
という歓喜と平安の心
になってもらいたい!」
 
という
その仏の心に
照準を合わせて
自己を
見つめ続けること
を言っているのです。
 
それを他力信仰と
呼んでいます。
 
元はお釈迦さまの
教えですので
目的は同じなのです。
 
観無量寿経にある
除苦悩法であります。
 
仏教は
苦悩を取り除く法
(おしえ)であるのです。
 
抜苦与楽であるのです。
 
与楽とは
仏の本願である
大安心
大歓喜の心を得る
ことなのです。
 
それが真我への道
であるのです。
 
そういう観点から
言えば
この“経営”という
言葉は
その大きな目的に
向かって
その一本道を
突き進むわけですから、
 
仏道修行と言っても
いいかも知れません。
 
生かしていただいて
有難うございます。
 
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角田 政治
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