2014年7月31日木曜日

“自分を正しく映す鏡”6

ここしばらくは
怒りについての考察から
当然のことながら
発生元である心について
展開してまいりました。
 
その
理解できているようで
理解できていない
心というものを
整理して
それではその心
私の心というものを
ありのままに
正しく映すには
どんな鏡を求めれば
よいのだろうか?
ということで
 
三枚の鏡の
自分鏡
他人鏡
法鏡
のどの鏡が
自分を正しく映すのかを
見てまいりました。
 
自分鏡は
自分に対する欲目や
自惚れが出てきて
どうしても正しくは
映りませんでした。
 
他人鏡は
他人の都合で
評価がコロコロ
変化するので
これも正しく映って
いるとは言えません。
 
法鏡という
この鏡こそ
自分の欲の本性を
照らし出し
自分を正しく映す鏡でした。
 
その鏡に映る自分は
心常念悪
口常言悪
身常行悪
曽無一善
というおぞましい心
でありました。
 
この物質界に
染まりきって
湧き出てくる
欲の心であり
自我むき出しの心
でありました。
 
そして、
その法鏡に映った
自らの欲の本性を
受け止めて
 
その鏡に映った
心の曇り
その曇りを取ることが
私たちに取って
最も大切なことで
あることを
学んでまいりました。
 
その方法は
自己を見つめること
 
静かな時間をとり
一つひとつの念いを
点検していくことが
必要であることを
述べ伝えました。
 
本日は自己を見つめる
ことについて
昔の私の真理ノートを
めくっていましたら
松原泰道禅師の
坐禅についての
大変、興味深いお話が
メモされていましたので
 
タイミングとして
大変共通したお話ですので
是非、共有して
頂きたいと思います。
 
松原泰道禅師の本は
予てより
大分、
読ませていただいて
おりますので
 
私の考え方に
随分、影響を与えて頂いた
方のお一人です。
私のメモには
1999年とありますので
今から15年ほど前に
読んでメモをしたものと
思われます。
それでは抜粋いたします。
 
 
『「足るを知る」こころ』
プレジデント社 p32抜粋

14世紀の中国に
中峰(ちゅうほう)という
禅者がいました。
中峰は次のように
禅の定義を行った
優れた人物です。

《禅とは心の名なり、
心とは禅の体(てい)なり》

心というのは
本心であり本性です。
禅とは本心であり、
その一つの修行方法が
坐禅なのです。

『サラダ記念日』という
ベストセラーを書かれた
俵万智さんの歌に、

泣いている
われに驚くわれもいて
恋は静かに
終わろうとする

というのがあります。
恋をし、
泣いたり喜んでいる
「われ」がいる一方で、
静かに自分を見つめる
「われ」もいる。

坐禅とは、
自我(エゴ)
自己との対話に
ほかならないのです。
 
「坐」という字を
よく見ると、
土の上に
「人が二人」並んでいますが、
これには意味があります。
 
つまり、
自我と自己との
「二人の自分」の対話が
断絶しないように
対話することが、
坐禅の意味です。

「二人の自分」との
対話量が多い人の人生は、
豊かになりますが、
 
自我をむき出すのみで、
自己との
対話をしない人は
貧しい人生を
送ることになります。

坐禅を組むことも、
写経も
型に囚われすぎては
なにもならない。
形式に流れすぎると、
形式は上達しても、
「二人の自分」との
対話は忘れられてしまう
危険性があります。

しかし、
型はなんといっても
大切です。
 
かなり到達した境地を
つかんだ人は、
たとえ立ったままでも、
実質的には
坐禅をしているのと
同じ精神状態に自分を
置くことができますが、
こうした人は
やはり少数でしょう。

まず、
静かな所で坐禅をし、
整った環境に手助けされて、
早く
「二人の自分」との
対話量を
増やすべきでしょう。

写経にしても、
崩し文字や
草書はさけるべきです。
あくまでも楷書で
きちんとした字を
書くべきでしょう。
 
きちんと字を写しながら、
そこに
「自分のこころ」
を投入するのです。
 
字が乱れる時、
自分のこころも
揺れているのです。

言い換えれば、
形だけ坐るのではなく、
坐禅に徹する
自分を早くつくり
上げることであり、
 
写経に徹する自分を
早くつくり上げる
ことが大切です。

観自在菩薩の「観」は、
一般的に思われている
観察という意味では
ありません。
 
「観察する者」と、
「観察される者」とが
一体になる。
 
もっと言うならば、
観察される者に
なりきって、
観察するのです。

非常に難しいことに
思えるかもしれませんが、
 
芸術活動に打ち込んで
いらっしゃる方には
すぐ理解できるはずです。

花を描こうとする時、
描く花そのものになって
描くのです。
私は花を描く
「主体」であり、
花は「客体」であると
突き放していては、
良い作品は
できないはずです。
 
一体になることの重要さです。

しかし一方で、
「一体になる」ことも
また難しいのです。
 
 
如何でしたでしょうか?
坐禅の真髄に
触れられたのでは
ありませんか!?
 
自己をみつめることの
重要性が
さらに理解できたのでは
ないでしょうか!
 
生かしていただいて
有難うございます。
 
 
*****************************************************
角田 政治
携帯番号:080-3085-4801

真理研究会:http://sinrikenkyu.jimdo.com/ 
Blog:「もう一つの今」http://sinrikenkyu.blogspot.jp/
*****************************************************

2014年7月30日水曜日

“自分を正しく映す鏡”5

昨日も
法鏡について
学びを得ました。
 
あの親鸞聖人でさえも
 
善を為そうとすると
そこには毒交じりの心
ウソ・偽りの善しか
行わなかった
親鸞であった!
 
と言わしめた
法鏡に照らし出された
人間の相(姿)
 
あなたはどう
感じられました
でしょうか?
 
お釈迦さまが
仰られたお言葉
曽無一善(ぞうむいちぜん)
「かつて一善なし」は
本当であったと
親鸞聖人は結びます。
 
お釈迦さまは
無上の覚りを得られた
お方であります。
その仏の眼から
ご覧になると
まことの善は
一つもないのです。
 
それはまさしく
私たち一人ひとりにも
備わっているところの
真我から見ても
同じであるのです。
まことの善はないのです。
 
自分が独りよがりで
どう思おうとも
どんなに否定しても
善は単なる行為ではなく
念いがすべてなのです。
 
どういう念いで
その行為をしたのかの
一点のみの審判なのです。
 
これを死後、
自らの真我が
自らの念いを
判定するのです。
 
その行為に雑毒の心は
なかっただろうか?
見返りを期待する心で
やっていなかったろうか?
この一点であります。
 
「私はそんな
見返りを期待したことは
一度もありません!」
という人がもしいれば、
 
それは
善をやったことが
ない人です。
まだ自分の心に、
気づいていないのです。
 
何もやらないのであれば
見返りを求める心は
出ないでしょう!
 
善はやればやるほど
雑毒を含むのです。
大善であれば在るほど
毒も強くなって
猛毒の心が法鏡に
照らし出されていくのです。
 
松陰の暗きは月の光かな
 
という言葉があります。
「松」は、
曲がりくねった木です。
「松」が、
自らの姿を知るには、
月の光が明るく
照らしているから
その照らし出された
自分の陰を見て
はじめて自分の
ひねくれた姿を
(曲がりくねった)
知らされるのです。
 
しかも
月の明かりが
増せば増すほど、
もっとくっきりと
松陰が映えるのです。
 
悪いことやめて
善いことしようと
廃悪修善を
行えば行うほど、
 
本当の自己の相(姿)が
知らされてくる
ということです。
 
本当の自己の姿が
知らされるということは
自我の持つ欲の本性を
知らされるということです。
 
この本性を知らずして
どうやって真我に
近づくことが
できるでしょう?
 
多くの人は
自分の行為は
これでいいと思っています。
 
自分の自我力の善で
満足をしています。
 
見返りも当然のように
期待しています。
 
そして、
「わたしは善いことを
している!」と思っています。
 
でもそれは
自分のモノサシで
そう思っているに
過ぎません。
 
それは自我の
モノサシで計った善です。
 
真我のモノサシは
念いしか計らないのです。
 
私たちは
善を
し続けることによって
これを乗り越えて
いかなければ
ならないのです
 
自我の本性を知るのです。
それを自覚と言うのです。
 
自覚ができないというのは
自我の本性に
気づけないのですから
雑毒の心を
気づけません。
自覚がないものが
どうやって自らの心と
対面していく
というのでしょうか?
 
どうやって自分の心を
点検していくの
でしょうか?
 
自覚もなしで
自らの心の曇りを
取り除かないで
 
どうやって絶対の
無碍なる大安心の心に
到達できるのでしょうか?
 
どうやって真我到達が
できるのでしょうか?
 
法鏡に映し出された
自分の自我の本性
曇っている鏡を
きれいにする作業が
必要不可欠なのです。
 
自らの心の曇りを
知ったものは幸いです。
曇りを曇りと
知らなければ
取り除くことは
不可能になります。
 
廃悪修善を実践しつつ
法鏡に映し出された
心の曇りを取り去る
ことこそ絶対の幸福に
繋がるいちばんの
近道なのです。
 
この現象界は
念いを行為するために
存在している世界です。
行動をしなければ
この世に生まれ出た
意味がなくなります。
 
どんなに頑張っても
肉体生命はあとわずかしか
残されていません
肉体が亡くなれば
否が応でも
念いだけの世界に
入っていくのです。
 
今の念いを行動に移し
実践することは
今しかできないのです。
この限定時間の中の
この現象界でしか
できないのです。
あの世に行って
必ず後悔するのです。
「もっと善をしておけば
良かった!」と
後悔するのです。
 
今まで無数の輪廻の中で
いつも後悔してきたのです。
 
「今度の生では
やり遂げるぞ!」
と決めてきて
また後悔するのです。
 
同じ後悔するなら
実践して実践して
後悔することです。
 
何もしないで後悔する
ことだけは避けなければ
なりません。
 
そこには怖れと後悔が
途切れることなく
次から次へと繰り返される
とても苦しい世界が
待っているからです。
 
そんな世界
こちらから願い下げです。
その為には
今、何を念い
何を為していくのか?
 
自らの欲の本性を知り
その心の曇りを
取る行動をこそ
私たちに取って
最も大切なことと
言えるのでは
ないでしょうか!
 
生かしていただいて
有難うございます。
 
 
*****************************************************
角田 政治
携帯番号:080-3085-4801

真理研究会:http://sinrikenkyu.jimdo.com/ 
Blog:「もう一つの今」http://sinrikenkyu.blogspot.jp/
*****************************************************

2014年7月29日火曜日

“自分を正しく映す鏡”4

昨日に引き続き
自分を正しく映す鏡
についてさらに
考察を深めていきます。
シェアしてください。
 
昨日は
悲歎述懐和讃の中の
親鸞聖人のお言葉
 
「悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる」
 
について学ばさせて
いただきました。
その中の
「修善も雑毒なるゆえに」
この意味は
 
善いことをしても、
そこには
毒がまじっている。
その毒とは
見返りを求める心である
と言いました。
 
この心とは
善いことに隠れていて
見え難い心ですので
さらに法鏡に照らして
みたいと思います。
 
あなたは
電車の中で
座っていますと
前にお年寄りが
立っています
あなたは
席を譲ろうと
声をかけます!
「どうぞ!お掛けください!」
お年よりは
ニコッと笑って
「有難う!」と言いました。
 
こうなれば、あなたは
善いことをして
いい気持ちです。
 
しかし、
席を譲るところまでは
同じなのですが
お年寄りからは
口には出しませんが
「当たり前だろう!
若いもんが座りよって!」
という顔つきで
黙って座ります。
 
どうでしょう?
この状態でも平然として
いられますでしょうか?
 
あなたの心に
問いかけてみてください!
「何だよ!折角譲って
やったのに!その態度!」
口には出しませんが
そう思うのでは
ないでしょうか?
 
知らず知らず
見返りを求める心が
湧いてきます。
雑毒を含んでいることに
気づきます。
 
私の知り合いに
あらゆる障害者団体や
ユニセフのような
慈善団体に
定期的に寄付を
されている方が
いらっしゃいます。
 
大きな会社を経営
されている方で
お金持ちでは
ありますが
 
お金持ちほど
吝嗇家はいないと
言われていますので
立派な方です。
 
そのことは
私だけではなく
知り合いの方は
みんな知っていました。
何故?
知っているのでしょう?
 
それは何かの会合や
パーティの席や
個人的な会話の中で
本人が
仰っているからです。
みんな本人から聞いて
知っているのです。
 
ある時
その方が経営している
会社のパンフレットが
送られてきました。
 
そこには
過去の寄付した団体や
慈善グループの名前が
ずらっと
書かれていました。
 
また、それらの団体から
贈られた感謝状が
その案内には
散りばめられていました。
 
それを見て
少し違和感を感じたのを
覚えています。
 
「でも、寄付するだけ
いいじゃあない!
それで助かる人が
いるんだから!」
 
その通りです。
それは善いことですので
寄付は是非続けて
欲しいと願います。
 
今は親鸞聖人のお言葉
からの学びですので
この心には
 
雑毒が含んでいることに
気づきます。
 
ここまでくると
コマーシャルと同じです。
 
TVなどのCMは高いです。
慈善の方が
費用対効果にしても
宣伝効果もイメージも
いいと計算があります。
 
真の篤志家は
人知れず徳を積んで
おられます。
 
やはり見返りを求める心が
ここにはあります。
 
お釈迦様は
布施の心がけとして、
「三輪空」というのを
教えておられます。
 
布施とは
親切ということです。
 
人に親切をする時には
「三輪空」でありなさい!
と真の親切を
説かれています。
 
本当の親切、
行いをする時に
大切なことは
このことですよ!
心して聞きなさい!
と言っているのです。
 
三つのものを空じなさい、
忘れなさい
ということです。
三つのものとは、
施主
受者
施物
の三つです。
 
他人に親切した時、
私が
誰々に、
何々を、
この三つを忘れるように
しなさいよ!
そうでないと、
折角の親切にも(修善)
毒がまじってしまいますよ
(雑毒)。
と仰っています。
 
親切は
素晴らしいことです。
 
しかし、善いことをする
ということで、
法鏡に映し出された
自分を見てみると
 
そこには
自分がやった!という思い
あの人に!あの団体に!
こんな善いことをした
と自慢する気持ちが
厳然として
映っているのです。
 
世間は隠せても
自分の中の真我は
すべてお見通しであるのです。
 
人間が死んだとき
見せられるものがあります。
まるで映画のように
自分の一生の行為を
振り返るのです。
 
あなたの顕在意識は
死んでも
暫くは残っています。
 
自分は沢山、善いことを
しているから大丈夫!と
思っています。
 
でも、その時に
一番重視されるものは
その行為そのものよりは
その行為をする時の
思いであるのです。
心がすべてです。
 
やったことは善いことだ
しかし、
どういう気持ちで
それを行ったのか?
それが重要なのです。
 
仏教では阿頼耶識と
言われている
真我の領域では
すべての思いが
業力として蓄えられています。
本人が忘れていようが
いまいが、
不滅の悪業力として、
不滅の善業力として、
収められているのです。
 
これは
素晴らしいことですが
反面恐ろしいことでも
あります。
 
この物質世界で
行ったすべての思いから
発した行為に
責任を取らなければ
ならないと言うことです。
 
このことが
何をやっても
ばれなければいいとか
 
警察に捕まらなければ
いいとか
 
人を騙しても
自分が金持ちになれば
いいとか
 
この世で好き放題
自我のまま
自分の利益
自分達の利益と
我利我利亡者であっても
いいとか
 
そのようにはいかない
理由であるのです。
 
やり得というのは
一切ない世界
自己責任の
厳しい世界でもあるのです。
 
この世でうまくいったと
思っても
自分の中の真我は
すべてお見通しなのです。
 
上記のような人を
無明の闇といって
無明は明かりが無いので
暗い暗いことです。
闇はまさしく闇で病みで
止みで(心を止めている)
真っ暗な心の人と
言います。
 
これがすべての
苦悩の根元なのです。
 
それが
死後の苦しみと
なってくるのです。
 
地獄の
世界に赴かなければ
なりません。
 
地獄とは神や仏や
閻魔さまから強制的に
入れられるのでは
ないのです。
 
自分の真我は
一ミリの狂いも無い
正しいモノサシなのです。
 
あの世は波長だけの世界です。
波長同通の法則と言って
波長に合った世界にしか
住むことはできないのです。
 
ただ、それだけのことです。
だから素晴らしいし
反面恐ろしいことで
あるのです。
理解できますでしょうか?
 
このことを
後生の一大事と言うのです。
 
私たちは
肉体を持っているときに
あまり“死”のことを
考えません。
 
また、考えたとしても
死にたくないと
思うだけで
一日でも
長生きするために
このサプリメント
この健康食品・健康器具と
一生懸命になって
飲んだり、鍛えたりと
肉体のみにポイントを
置いていますが
 
大切なのは
心であるのです。
心の持ち方ひとつなのです。
心をどのベクトルに
向けるかで
死後の生もまた
次の肉体としての生にも
影響してくるのです。
 
これが後生の一大事と
言っているのです。
この一大事に備えて
今、何をあなたは
しているのか
どうかなのです。
絶対の大安心になるには
今、どのような状態で
あらねばならないか
なのです。
 
それでは親鸞聖人の
和讃の4行目に戻ります。
「虚仮の行(こけのぎょう)
とぞなづけたる」とは、
「虚仮の行」とは、
「行」とは善のことなので、
ウソ偽りの善である
ということです。
 
「修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる」
 
毒まじりの善だから、
ウソ偽りの善なのだ
ということです。
善をする時は、世のため、
人のためといいます。
「人」と「為」は、
一つの漢字にすると、
「偽」となります。
 
得てして人の為と
声高々に宣伝している人や
会社には偽者が多いのでは
ないでしょうか?
 
結局、
人の為といいながら
人の為ではなくて、
自分の為に
やっているということです。
 
善を為そうとすると
そこには毒交じりの心
ウソ・偽りの善しか
行わなかった親鸞であった!
 
と結んでいるのです。
 
私たちも
真に心しなければ
ならないお言葉で
あると思います。
 
生かしていただいて
有難うございます。
 
*****************************************************
角田 政治
携帯番号:080-3085-4801

真理研究会:http://sinrikenkyu.jimdo.com/ 
Blog:「もう一つの今」http://sinrikenkyu.blogspot.jp/
*****************************************************