昨日は
“譏嫌”(きげん)
について
学びました。
「当(まさ)に
“譏嫌”を護りて、
衆生をして
妄(みだり)に
過罪を起こさしめず」
とあるように
私たちも
人から
“譏り”を
受けることのない
自分と言うのを
形成して
行きたいもので
あります。
しばらくは
“機”を中心に
仏教を
学びましたが、
もうそう“機”に
関する言葉も
ないと
思いますので、
本日は
もっと自由に
仏教用語を
選んでいきたいと
思います。
と言うことで
“自由”という
言葉について
語ってみます。(笑)
“自由”
という言葉は
仏教のとても
重要な言葉です。
お釈迦さまが
入滅されんとして
おられる時の
お言葉に
このような有名な
お言葉があります。
いわば、
遺言とでも
言いましょうか
お釈迦さま
最期の
お言葉とされている
「涅槃経」の一説です。
お弟子さんの
阿難尊者
(アーナンダ)
に対して語った
言葉です。
「私の死後は、
自らを灯明とし、
自らを拠り所とし、
他を拠り所とせず、
法を灯明として、
法を拠り所として
他を拠り所とせず、
修行に励みなさい。」
と仰いました。
自灯明とは
文字通り
自らを灯明とする。
自らを
拠り所とする
わけですから
自らの灯明が
何なのかが
解らなければ
解らないまま
拠り所にしたならば、
「自分勝手にしなさい。」
とか
「自分が思うままに」
というふうに、
捉えないとも
限りません。
灯明とは何でしょう?
灯明とは仏性であり、
正しい
モノサシである
良心であり、
私が
常に言うところの
真我であります。
私たちは
この肉体を
喜ばせる(感受)
だけのままでいると
心は執らわれて(執着)
まいります。
この現象界には
不変のものは
何もありません。
実体が無いものに
執らわれて
いくわけですから、
心は苦悩を
彷徨うのです。
これが、
自我の心です。
偽者の心であります。
その偽者の心を
見つめて
法に照らして
炙りださなければ
なりません。
その欲の本性を
知るのです。
それが
法灯明であります。
法とは
お釈迦さまの
教えです。
その法を
拠り所として
いつしか、
人は真我に
目覚めるのです。
法灯明は
お釈迦さまが
灯してくれた
明かりです。
でも、その
明かりを見るのは
自分なのです。
お釈迦さまは
他の何ものをも
拠り所にしては
ならないと
仰っています。
お釈迦さまは
それは
徹底した方でした。
お釈迦さまの姿を
描くことさえ
禁じていました。
それは、
あらゆる
偶像を否定されて
いたと共に
個人崇拝も
否定したのであります。
ですから
自らを拠り所にし
法を拠り所に
して、
他の一切に依拠する
ことを良しと
しなかったのです。
すべての
他への依存は
自我の心が
そう
させているのです。
自我の心は
煩悩に
支配されています。
貪り
怒り
妬み
嫉み
恨みの心です。
苦しいからこそ
他へ依存するのです。
心がそれらに
支配されて
いるからこそ
さらに苦しみは
増して行くのです。
しかし、それを
自覚するものは
幸いです。
自覚したものは
法の明かりを
見るからです。
法を拠り所に
するしか道が
なくなるからです。
そしてお釈迦さまが
灯した明かりと
(法灯明)と
自灯明が溶け合う
のです。
自我の昇華とも
言うべき瞬間を
迎えるのです。
これが、
真の“自由”を
得るということで
あります。
長くなりましたが
“自由”とは
自灯明のことでも
あります。
自らを拠り所として
とPCは変換しますが、
自らを由り所として
法を由り所として
と書いたのです。
それが“自由”という
言葉であります。
自らを
由り所とするのです。
自灯明のことです。
自灯明とは真我です。
法灯明とは真理です。
真に仰ぐべきは
自らの内の
真我であり
本物の法であります。
そのことに
気づくことこそが
真の“自由”人たる
所以では
ないでしょうか。
生かしていただいて
有難うございます。
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角田 政治
携帯番号:080-3085-4801
昨日は
“投機”の本来の
意味について
お話しました。
皆さんに
“投機”を
お勧めしましたが
くれぐれも
勘違いされないように
お願いいたします。(笑)
お釈迦さまは
それぞれが
“投機”を
得やすいように
それぞれに応じた
説法を心掛けて
おられました。
どんな世界にも
初心者も居れば
上級者も居る
それぞれの能力や
段階に於いて
慈愛の心で
お説きくださって
いるのです。
金光明最勝王経に
こう書かれています。
「その器量に随い、
善く機縁に応じ、
為に法を説く。」
私たちの
器量に随って
器量と言うのは
心の器が
どの程度のものかと
推量され
それぞれの
“機”というものを
熟すように
教えを問いて
おられるのです。
“機”に応じて
おられるので
そういう説法のことを
対機説法と言います。
丁度、
良いお医者さんが
それぞれの病気の
種類に応じて
薬をだすことを
“応病与楽”
と言いますが
やぶ医者は
“肛門に目薬”と言う
ことわざが
ありますけれども
与楽ならず与苦を
追加で与えている
ようなものです。
仏は
“機縁”に応じて
私たちの可能性を
引き上げようと
しておられます。
私たちも
その仏のはからいに
応えて
真理をよく聞法し
“機”を熟し高めて
“投機”を目指して、
いきたいものです。
“投機”や“機縁”
並びに
“機機投合”
“機法一体”と
“機”について
続けてきましたので、
もう一つ
“機”の関連の
仏教用語を
紹介しましょう。
“機嫌”です。
“機嫌”と言う言葉の
使い方としては
挨拶などで
「ご機嫌はいかがですか。」
と相手の最近の様子を
尋ねる言葉として
使っています。
また、
「機嫌が悪い。」というと、
怒りの感情を
現わすような言葉
として
使ったりしています。
さらに
その感情を改める
時には
[機嫌を直す。]とか
使います。
それでは
仏教に於ける
機嫌という語源は
どういうことを
意味しているのでしょう。
元々は機嫌と
書きませんでした。
“譏嫌”と書きます。
言偏の“譏”を書きます。
読み方は同じ
「きげん」です。
意味は文字通り
“譏り(そしり)を
嫌う“ということです。
ではこの言葉の
背景はと言いますと
仏教に於ける
修行者と言うものは
朝晩瞑想に明け暮れ
お釈迦さまの
御説法を
聞法精進し
遊行と言って
各地を説法に行く
ことを業として
おりました。
それ以外の
生活に関わる
一切の日常的な
物から
衣食に到るまで
在家や一般の方の
布施でまかなって
いました。
そのために
お釈迦さまの
お弟子さんたちは
修行者として
一般の衆生の
模範とならなければ
なりません。
お釈迦さまは
その
規範ということには
自らも厳しく
律する方で
ありましたが、
修行者に対しても
大変厳しい戒律を
設けたのです。
それはお釈迦さまの
厳しさであると共に
お釈迦さまの慈悲の
心のこもった
仏弟子への配慮で
ありました。
仏弟子が心おきなく
仏法の修行を
果たすためには
在家の方や
一般の衆生が
仏弟子たちに
心から布施を寄進
し易いような
環境は不可欠でした。
たくさんの
お弟子さんが
いたわけですから
当然未熟なものも
おります。
若い人もいます。
そして当時は
身分制度が
はっきりとして
いた時代ですから、
生まれたときから
貴賎が
決まっていました。
仏弟子の中の
卑しい
身分に生まれて
きた人たちは
劣等感に似た気持ちを
持ち続けてきました。
そう観単には
抜けないものです。
又、
貴い身分に生まれて
来た人たちには
どうしても
上から見る癖が
抜けないものも
おります。
それは
在家でも
同じわけです。
ちょっとしたことで
トラブルが起き易い
荒廃した時代の
ことであります。
差別が多い時代
多い国は
いつもトラブルが
耐えないのは
現在でも
なんら変わっては
いないのです。
身分の違い
人種の違い
宗教や
信条の違いで
今でも
殺したり
殺されたり
破壊したり
破壊されたり
繰り返し
行われています。
修行者たちは
皆、目指す方向は
同じであっても
あくまで
完成された人間では
ありません。
そういう意味では
私たちと
同じように
煩悩もあるし、
あらゆる苦悩も
持っている人間の
グループであります。
遊行では
今風で言えば
全国のいろいろな
お宅に伺います。
そこで
もし、
ご馳走にでもなって
酒でも振るまれよう
ものなら
つい悪いほうへ
気持ちが
大きくなって
失礼を起しかねない
それが人間です。
ましてや
宿泊でも
進められようものなら
人の家に
泊まるわけですから
家族もいます。
その中には
若い女性も
いるかも知れません。
間違いがないとは
限りません。
お釈迦さまは
かつての自分が
そうだったように
人間の欲とは
そういうものだと
熟知されておられます。
しかし、
そうだからと言って
仏弟子が一人でも
少しでもひんしゅくを
受ける行いを
したとしたら、
お釈迦さまの
教団全体の
評判を落とすことに
なってしまいます。
また
その時代は
身分制度の中で
根付いている
元々の宗教も
(バラモン教等々)
ありました。
いい格好の材料に
なってしまうでしょう。
そうすると
衆生の心が離れて
布施の気持ちも
薄らいで
行くかもしれません。
そうしますと、
仏弟子たちが
衣食を得るために
働かなくては
ならなくなります。
仏道修行や
遊行の業は
お釈迦さまの
教えを護持し、
自らの心を
常にみつめて
点検すること。
そして自らを高め
平かな心を
目指しています。
そして、
その教えの実践として
一般の人たちへの
説法をするため
行脚を続けます。
その実践は
人々の
心を癒し
心を耕すもので
あります。
そして
人々の
苦悩を抜き去り
喜びを与える
偉大なる仕事です。
そのためには
山を越え
川を渡り
どんな険しい
悪路であっても
忍耐と情熱を
持って乗り越えていく
厳しい修行なのです。
その修行が
心置きなく
行えないことに
なってしまいます。
そのために
お釈迦さまは
一般の衆生たちや
在家の人たちからの
“譏り(そしり)
を嫌った“のです。
それが
“譏嫌”
(きげん)の言葉の
背景であります。
世の“譏嫌”を
息(や)めさせる
戒として
「息世“譏嫌”戒」
という
厳しい戒律を
制定しました。
このように
修行者が
世間の人たちから
“譏り(そしり)を
受けて
修行が妨げられる
ことがなきようにとの
お釈迦さまの緻密な
配慮から生まれた
言葉であります。
「当(まさ)に
“譏嫌”を護りて、
衆生をして
妄(みだり)に
過罪を起こさしめず」
と(起信論)に
あるように
私たちも
ある意味
現代の修行者で
あります。
修行者たるもの
自らの始末を
きちんとして
世の“譏(そし)り”を
嫌い(受けないように)
自戒を
したいものです。
これが私たちに
与えてくれた
お釈迦さまの
“譏嫌”の
実践的教えで
あります。
生かしていただいて
有難うございます。
*****************************************************
角田 政治
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