2014年10月18日土曜日

“無常観”パートⅥ

本日も
“無常観”について
お話を進めて
まいります。
 
今まで
たくさんの
“無常”の形を
みてまいりました。
 
この世は
“無常”であります。
移り変わらないものは
一つとてありません。
 
それなのに
“無常”に
逆らって
生きていくのも
人の常であります。
 
限られた
人生の中で
終わることのない
キリがないことを
していくのも
人間です。
 
人間の
不死性
というか
永遠性への
憧れなのかも
知れません。
 
“無常”と言うのは
変えられないのに
永遠に生きるが
如く
毎日を送っています。
 
その結果
そのまま
突然“死”が
訪れてくるのです。
 
その時
世の儚さを感じ
今まで
一生懸命に
やってきた方向が
すべて崩れる
ものであったことに
感覚的に
気づきます。
 
どんな偉業を
成し遂げた人でも
名声を
博した人でも
 
否、
そうで
あればあるほど
後悔と怖れが
押し寄せて
くるのです。
 
豊臣秀吉も
そうでした。
武田信玄も
徳川家康も
織田信長も
明智光秀も
等々
皆、そうでした。
 
その時に
感じるものは
“無常感”であります。
 
否応がなく
感覚的
情緒的に
感じてしまうのです。
 
このブログでは
この世は
“無常”なのである。
 
あなたも
“無常”である。
 
“無常”であるが故に、
“無常”を
自らの問題として
観てとって、
 
それを
超えたところに
自らの生き方を
求めて行くこと
それを
進めています。
これが
“無常観”であります、
 
桜が散っていく
「ああ、さみしいなあ!
ああ、はかないなあ!」
 
これは感覚的
情緒的な表現です。
 
しかし、
桜は散っていく
“無常”であるから
 
しかし
桜はその中に
一年の時を経て
花を咲かす
因子を蓄えて
いくのです。
 
これが
“無常観”であります。
 
積極的な意味合いを
持っています。
 
“無常”を観じて
生活の中に
生かしていく
 
“無常”を生きていく
ということです。
 
“無常”の
最終形は
“死”であります。
 
これを
先に立たせて
観ずるということは
“無常観”であります。
 
そのことは
とても大切です。
 
真の意味で
はっきりとした形で
生を肯定する立場が
諦かになってきます。
 
“無常”の中を
私たちは
生きています。
 
一日一日を
“無常”を
自覚して生きる
ことです。
 
それが
自分の人生を
積極的に
そして正しく
生きていくことに
繋がっていくのです。
 
道元禅師は
「正法眼蔵」の中で
こう仰有っています。
 
「無常は仏性なり。
しかあれば、
草木叢林の無常なる、
すなわち仏性なり。
 
人物身心の無常なる、
これ仏性なり。
国土山河の無常なる、
これ仏性
なるによりてなり。」
 
私たちの
存在というものは、
孤立しているものでは
ありません。
 
無限の中の
生において
いろいろな
原因や条件を受けて、
暮らしているわけです。
 
仏性が夫々に
備わりつつ
生かされている
存在であります。
 
それを
観じながら
“無常”の中を
生きるということが
 
とても
大切なことだと
言っています。
 
生かしていただいて
有難うございます。
 
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角田 政治
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