久しぶりに
ブログを
書かせて
いただきます。
10日に左目の
白内障の手術も
終り
眼帯も取れまして
右目同様
順調に推移して
おります。
後は、炎症が
取れてきましたら
後は次の
網膜症の手術の
ことを
お医者さんと
決めていこうと
思います。
でも、ここ
十年近く感じた
ことのないくらい
良く見えます。
特に色彩が
美しいのが
とても
うれしいです。
改めて
人間の肉体と
雖も
何ひとつ
欠けても
こんなに不自由に
感じるのだと
思い知ることが
できました。
これも
ひとつの
無常であります。
丁度
無常観のシリーズを
このブログで
連載していた
時で
ありましたので、
人間にとって
決して避ける
ことのできない
"死“という
身近でありながら
なぜか、
遠くに
追いやっている
存在の持つ
意味について
いろいろな例題を
持って
書いていました。
眼が治ったら
こういうことが
お伝えできたら
いいなとか
まだ、
こんなことも
お伝えできて
ないなとか
考えていましたが、
世の中無常で
あります。
こんなときに
どんなことで
“死”は訪れないとも
限りません。
そうしたら
どうなんだろう?
やっぱり
悔いは残るのだろう
なあと思います。
“死ぬ”ときに
後悔のない人生を
感じることは
私の理想ですが
やはりそうは
なかなか
ならないのだろう
と思います。
今年は
5月の末に
女房の弟さんが
53歳で
亡くなりました。
一年半ほど前に
舌癌と診断され
舌を切除し
言葉を失い
その後の会話は
メモとペンに
よるものでした。
食事も胃ろうに
よるもので
それからの
弟さんの生活は
もどかしい程の
不自由を
強いられたことと
察せられます。
そして
昨年の11月には
余命半年を告知
されます。
弟さんは
そのことに
対しても
何も触れずにいて
今年の2月初め
私から最近の
様子をメールで
伺いました。
その時の彼からの
返答の
メールです。
この頃は既に
余命3ヶ月頃の
時期になって
おりました。
「いつもメール
ありがとうございます。
現在、入院中で
3種類の抗がん剤を
同時に投与し
今日の午前中に
終了しました。
あとは副作用待ちの
感じです。
余命、
いくばくも無く
生きることに
執着しています。
この後、
一週間程の
経過監視をして
退院できると
思います。
まだまだ
生き抜きます。
応援宜しく
お願いします。」
そして
彼は
舌癌と闘い続けて
余命宣告の日
迎えました。
「毎日、
“もう一つの今”の
メール
有難うございます。
きょうで主治医の
仰る余命が
ゼロになりました。
だけど、
ひどい風邪をひいて
しまいましたが、
何とか
生きています。
これで余命も
リセットされた
気分です。
蛇の生殺し感は
残ります。
これからも応援
お願いいたします。」
この約三週間後
彼は旅立って
いきました。
(この時の様子は
“死”の持つ意味に
ついてに
詳しく書いて
ありますので
参照してください。)
女房の弟さんが
余命を
宣告されてから
どう“死”を容認
するに至ったかは
わかりません。
しかし、
彼もおそらく
キューブラ・ロス
モデルの
プロセスは
踏んだのだと
思います。
ただ、
彼は
このブログの
別のタイトルの
時からの
一番のファンでした。
良くメールを
送ってきてくれて
「今日の
“もう一つの今”に
励まされましたとか、
生きる気力が
湧いてきました!」
とか、
度々、感想を
書いて
くれていました。
“死”
ということにも
また、
永遠の生命と
いうことについても
ある程度は
理解してくれて
おりました。
ただ、
三ヶ月ほど前に
私は彼の余命を
知ったのですが、
当初、
一日でも長く
生きていて欲しいと
願っていました。
彼も
そうだったと
思います。
彼には
87歳のお母さんと
私の女房も含めて
3人の姉がいますが、
みんなそう思って
いたと思います。
しかし、
“死”の宣告日を
迎え
その日は
新たな気持ちで
再出発できるもの
と思い
何か安堵感のような
ものが
湧いてきて
その日を
思い思いに祝福
しました。
しかし、
その翌日からも
やはり“死”は
同じように
付きまとって来る
ことは
何も
変わっていない
のです。
その時に
私が感じた
正直な気持ちです。
それは、
かけがえのない
生命というものを
余命という期間で
くくって
数量化することに
何の意味が
あるのかと
言うことです。
その余命の期間を
一日でも
多く生きたから
生命の価値が
あがるという
ものではないのです。
一旦、
数量ではかると
生命が物に
転落して
しまうからです。
私たちは得てして
一日でも長くと、
生命を量ではかり、
その数量の多さに
意義を感じ、
それを求めて
いきます。
しかし実際は、
短くなればなるほど、
一日の重みが
増していきます。
そして、
そして、
その極みが
今という
この瞬間です。
この場所に立って、
俯瞰するとき、
この
今という瞬間は
再び、
二度と巡ってこない。
という
永遠性に根付いた
質をもった
生命であることに
気づかされます。
“死”を
“死”を
意識することは、
ただ、
長生きしたいという
願望による
価値観から、
今日の一日を
どう大切に
生きるかという
考え方に
回心する
最良の時でもあります。
それは
かけがえのない
生命の
短さのゆえに、
永遠を感ずる
生き方であります。
たとえ、
生命の終りで
あっても
そうでなくても、
特に変化のある
生活をするわけでは
ありません。
しかし、
同じ生活であっても、
“死”を意識して
今日を
生きるのとでは
この瞬間の
意味が大分
変わってくると
想うのです。
あなたはどう
想われますか?
生かしていただいて
有難うございます。
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角田 政治
携帯番号:080-3085-4801
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真理研究会:http://sinrikenkyu.jimdo.com/
Blog:「もう一つの今」http://sinrikenkyu.blogspot.jp/
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