今日も
「預言の的中とその限界」の
ご講義テープから進めます。
次に確率の高い預言者として
谷口先生が紹介したのは
ダニエルさんです、
『旧約聖書ダニエル書第11章31節に
「彼より腕、起こりて、清きところ
即ち難き城を穢し、常供の物を取り除かせ、
荒す憎むべきものを立てん!」
それが悩みのときであって、
世界終末の予告のようである。
そして第12章には、
「その時、汝の民の人々のために、
立つところの大いなる君、
ミカエル立ち上がらん。」
ミカエルは
キリスト教では最高の天の使いです、
ミカエルは
日本の神道で言えば、住吉大神
(すみよしのおおかみ)
のような存在です。
「古事記」では、住江大神
(すみのえのおおかみ)となっている、
いざなぎの大神、いざなみの大神と
同じように大神と書いているのは
他にはあまりないので、
ミカエルは大天使と言ってもいい。
「これ悩みのときなり、
国ありてよりこのかた、
そのときに到るまで、
かかる悩みありしことなかるべし、
その汝の民は救われん。
すなわち
文にしるされたものは皆、救われん。
(大天使ミカエルの手に持っている
巻き物に書かれているものだけは救われる)
土の下に眠りおるものの中の
多くのもの眼を覚まさん。
そのうち限りなき命を得るものあり、
また恥辱を被りて限りなく恥ずるものあり、
悟きもの、空の輝きの如く輝かん。
また多くの人を正しきに導けるものは
星の如くなりて永遠に到らん。
ダニエルよ、終りのときまで、
この言葉を伏し、この文を封じおけ、
多くのもの行き渡らん。
そして知識増すべし。」
とダニエル書の最後の書に
将来の予言を書いてある。』
『このダニエル書を
日本に当て嵌めて考えてみると
「荒す憎むべきもの」を
占領軍、原子爆弾と捉える事もできる。
「清きところ」を神国日本
「常供の物を取り除かせ」
占領軍がやってきて、
神道指令を出して常にお供え物を
取り除くように指令した。
伊勢神宮や靖国神社を禁止したことに
当るかもしれない。
時の兆しを見て考えると、
「荒す憎むべきもの」が何であるか?
清きところが日本なのか?
世界最後の日としての
起点として考えることは出来る。
本当の終末の日が起こるまで、
いつ終末の大破壊が起こるか、
誰も天の使いもイエスも解らない。
聖パウロがその日が来ると、
孕める女と、乳を飲ます女とは
苦しみを犯すから、なるべく結婚するな!
といったように、
間違いを犯すことになるかもしれない。』
と語られるのです。
そして
このノストラダムスの予言詩を
ダニエル書との比較で対比します。
『「大きな七の数が巡り終わるとき
虐殺が起こる。
それは、かの大きな千年から
そんなに遠く立った時ではない。
そのとき墓に入っていたものは、
そこから出てくるであろう。」
五島 勉氏は、
ロバーツという方の解釈として
「西暦○○○○年
12月に、
1999年を上回る
大戦争が起こって、
細々ながら大破壊から逃れて
生き残った破滅後の人類の子孫が、
今度こそ一人残らず滅び去るのだ。
そして
墓に入っていたものが
出てくると言うことは、
幽霊しかなくなると言うことであり、
完全に絶滅である。」
と解釈しているのである。
こういう暗い解釈が
できないこともないけれど、
ダニエル書には、
「土の下に眠りおるものの中の
多くのもの眼をさまさん。
そのうち限りなき命を得るものあり、
悟きもの空の輝きの如く輝かん。
また多くの人を正しきに導けるものは
星の如くなりて永遠に到らん。」
すばらしい人間が
再び土から再生して生まれてくると
書いてある。
悪い解釈の方に味方をすると、
悪い心の思いを、
この地球上にいっぱい漂わす。
心の思いが
互いに連絡して組み合わされて、
丁度、
水蒸気が雲になるが如く、
現象界が生まれるフィルムができる。
そのフィルムが
地上に悪いものを現わす。
悪いほうの
予言の解釈をしないようにして、
いいように解釈する。私はそう思う。』
と続けます。
そして、
谷口先生がご自身が居られた教団、
大本教について語るのです。
『最後の審判の大破壊の日を
予言して、間違ったのが
かつての大本教です。
その時代に(谷口先生は)
大本教の機関紙の雑誌の心霊界や
綾部新聞を編集していた。
大本教は教祖、
出口ナオが、神懸かりになって、
明治25年正月元旦、
お筆先で神様の言葉を
自動筆記で書いたことから始まる。
そのお筆先はとても
読みにくいのです。
平仮名と数字で書いてある、
例えば
「ごくろうであるぞよ。」は
5と9は数字で書いてあって、
後は平仮名で書いてある。
最後の審判の予言も皆、
平仮名で書いてある。
大本神癒には
じしんかみなり
ひのあめふらして
たいらげるぞや
と書いてある。
当時の幹部は、
「地震、雷、火の雨ふらし、
(隕石が夥しく降ってきて)
地上の人間は皆、平らげられてしまう」
と解釈した。
そして、
大本教を信じて、魂を清めて、
身を清めたものだけが
救われるというので、
皆、魂を清め、身を清めていた。
しかも年限が
めいじ55ねん
5がつ5にちは
けっこうなひであるぞよ
と書いてあるので、
いよいよ、最後の審判だと
信者は注目していた。
大本教の信者の金持ちは、
当面の生活費を残し、
その他は教団に献金した。
年号変わって、その日は
大正11年5月5日、
しかし、
何事も起こらなかった。
谷口先生は
二年ほど前に
大本を後にしていたのである。
「最後の審判と言って、
皆殺しをするような神様はない。
神様と言うのは残虐なものでは
ないのである」
と思って
大本教を出ていたのである。
「神は愛の神でなければならない!」
と思って、東京に出てきた。
論文集「聖道へ」
(しょうどうへ)を発表した。
それから、
「神罰を当てるような神がおるか!」
と言うことで
「神を裁く」という小説を書いた。
ところが
この「神を裁く」という小説は、
東京の書籍小売店に配給されたのが、
大正12年9月1日でした。
その日に関東大震災が起きて、
この小説は、
神から逆に裁かれた形で
皆焼けてしまった。
しかし、地方の書店で
残っていた数十部の返品があって、
それをもとに
日本教文社から「神を裁く」として
出ているのです。(現在は廃盤)
あの頃(当時)
神をいかに見ているか。
最後の審判をどう見ているか?
その中の、
「秘められたる神示」
57Pを抜粋する。
続く
明日、最終回です。お楽しみに