2014年12月9日火曜日

『行雲流水』の如く

昨日の
12月8日は
お釈迦さまが
覚りを
啓かれた日の
成道会でした。
 
私たちも
お釈迦さまの
覚りの日に
あやかって
 
一日
我欲執着から
一切離れ
人の為に
他の為に
なることだけを
実行する日とする
提案を
いたしましたが、
 
昨日は
いかが
お過ごしだった
でしょうか?
 
何かを
意識して実行
されました
でしょうか?
 
そしてその
感想は
いかがでしょうか?
 
機会が
ありましたら
お聞かせください。
 
今日は
たまたま
朝早くから
私の
真理ノートを
開いたところが
 
このブログでも
何回か紹介
させていただいた
松原泰道禅師の
書籍からの
メモが
書いてありました。
 
そこに
丁度
皆さんに
伝えたいと
思っていて
 
近くテーマに
したいと
思っていた
言葉と
その解説が
書かれている
箇所が
ありました。
 
早速
お釈迦さま
成道の
功徳に
あやかった
気分です。
 
その
言葉というのは
行雲流水
(こううん
りゅうすい)
という言葉です。
 
この言葉は
大変
深い言葉であり
私の大好きな
言葉です。
 
そして
その行雲流水
の言葉の
松原泰道禅師の
解説が
とても
素晴らしいもの
でしたので
 
私があれこれ
書くよりも
この解説のメモを
シェア
してください。
 
松原泰道禅師の
『生きるための
杖ことば』
という本の
74pとあります。 

引用始
『「行く雲のごとく、
流れる水のように」
一ヵ所に停住する
ことなく、
放浪漂泊の
旅をつづける
意味だけではない。
 
行く雲のごとく
何ものにも
とらわれずに
無心に、
また流るる
水にも似て、
決まった型に
こだわることなき
自由を体得する
をいう。

しかも、雲は、
ときには
峰に止まって
山の風光を添え、
添えたことも
忘れて、
いずこかに
去って行く。
 
水も、
特定の型には
なじまぬが、
必要があれば
方円の器に
したがい、
その場に充実して
生きる。
 
このように、
無心無相に
その時その所を
生き、
その時その所を
生かしていく
生き方が
「行雲流水」
である。

行雲流水は、
また無常の相
(すがた)でもある。
 
しかし、
自然の
たたずまいだけに
無常を
感じるだけでは
不十分である。
 
自分自身の
無常を観じる
よすがとして、
行雲流水を
凝視しなければ
ならない。
 
類語に
「白雲、
(おの)ずから
去来す
(白雲自去来)」
がある。

九条武子さん
(1928年没)
 
「大空をしずかに
雲は流れゆく 
しずかに
われも
生くべかりけり」
 
の詠草がある。
 
「行雲流水」と
「白雲自去来」の
二つの意味を
ふまえて
詠まれたような
一首であろう。

私がはじめて
「雲水」の
行脚(あんぎゃ)
出るとき、
私を
得度してくれた
松島瑞巌寺
(ずいがんじ)
盤竜老師が送別に
次の詩を書いて
記念に下された。

行け行け 
潭北(たんほく)
また湖南(こなん)
処々(しょしょ)
風光は
(さぐ)るに一任す

堅固法身
(けんごほつしん)
正眼(しょうげん)
開かば

花は鏡に似て 
水は藍の如し」

どこへでも
縁に流れて旅を
つづけるがよい。
そして、
各地の風光を
自由に味わうが
よかろう。
 
心の眼さえ
開けるなら、
花も水もすべて
真如を
語っているのが
わかるであろう
――と。』
引用了

いかがでしたか?
 
私はこの
「行雲流水」の
言葉に
四法印を
観じます。
 
お釈迦さまが
この世を
「一切皆苦」と
喝破され
 
そして
「諸法無我」
「諸行無常」の
虚実を俯瞰し
 
「涅槃寂静」に
至る
菩提樹の下での
成道までの
流れの中に
 
この言葉の持つ
奥深さを
観じるのです。
 
それは
真理を
追い求めての
旅の中での
「行雲流水」で
あったと同時に
 
禅定の中での
静かな調和で
平安な
「行雲流水」で
あったのだと
思います。
そこに真の
無限なる喜びを
観じたのでしょう。
 
私も
このような
無心無相で
ありたいと
思う今日この頃で
あります。
 
生かしていただいて
有難うございます。
 
 
 
 
*****************************************************
角田 政治
携帯番号:080-3085-4801

真理研究会:http://sinrikenkyu.jimdo.com/ 
Blog:「もう一つの今」http://sinrikenkyu.blogspot.jp/
*****************************************************

0 件のコメント:

コメントを投稿