2015年5月27日水曜日

“生きる意味を考える”13

昨日に引き続き
東井義雄さんの
お話を
続けてまいります。
 
東井さんが
唯物論に
どっぷりと
浸りきっていた時
 
再び
こころを
取り戻すべく
東井さんに
訪れた縁とは?
 
さて
ひょんなこととは
 
一体、
どんなことで、
あったのでしょう?
 
当時、
東井さんは、
高等小学の担当で
三学期が終わる
時のことです。
(当時は
尋常小学が 6 年で
義務教育期間で
高等小学は 2 年で
あった。)
 
その部分を
前述の
「拝まないものも
おがまれている」
から抜粋させて
いただきます。
 
『「これで、
この学年の勉強は
全部終わった
わけだが、
何か
質問はないか?」
 
といったとき、
北村彰男君と
いうのが、
 
「はいっ!」
と挙手しました。
ギクッと
しました。
 
彼は、
母ひとり
子ひとりの
貧しい家の
子どもでしたが、
 
小学三年の
ときから、
朝は毎日
三時半起床、
豊岡市を
新聞配達をして
廻ります。
 
終わって勉強、
朝食をとって
学校にやってくる。
 
学校が終わると
とんで帰って
こんどは
夕刊配達です。
 
それを
小学三年から
一日も休まず
続けてきたという
しっかり者です。
 
お母さんが
厳しい方で、
 
「お前の本職は
勉強だ。
新聞配達を
やっているから
といって、
 
学校で
居眠りなんか
するようなら、
 
新聞配達なんか
やめてしまえ」
 
というような
お母さんです。
 
ですから、
他の子どもが
居眠りすることが
あっても、
 
彼だけは、
シャンと腰骨を
立て、
にらみつける
ような目の玉で
授業を
受けるのです。
 
私なんかよりも、
人間的には
彼の方が立派です。
 
だから私の方で
ギクッとして
しまったのでしたが、
彼は言いました。
 
「先生、
ああと口を
あけると、
のどの奥に
ペロンとさがった
へんなものが
見えてきますが、
 
あれは、
どういう仕事を
しているのですか?」
 
というのです。
 
「ノドチンコ」と
子どもの頃から
いってきた
あれの存在は
私も知っては
いましたが、
 
それが
どういう仕事を
しているのかは
知りませんでした。
 
教わった記憶も
ありません。
 
「北村君、
ノドチンコが
どんな仕事を
しているのか
知らんわい。
 
きょう家に
帰ってから
調べてみるから、
 
すまんけど
明日まで答を
待って
くれんかい」
 
という以外
ありません。
 
そのことが
わかりそうな
学校の図書などを
借りて帰って、
その晩、
一生懸命
調べましたら
わかりました。
 
ノドチンコ、
ほんとうの名前は
「口蓋垂」
(こうがいすい)
ということ。
 
のどの奥で
道が分かれており、
ひとつの道は、
鼻から吸い込んだ
空気が
肺に行く気管の道。
 
もうひとつは、
口から入った
食物が
胃袋に行く
食道の道。
 
この分かれ道で、
食物が
道を間違えて
気管に入り込むと
窒息してしまう。
 
そういうことに
ならないように、
食物を
飲み込むときには
口蓋垂が
気管の入り口を
ふさいでくれる
 
というようなことが
わかって
きたのです。
 
ほんとに、
ほんとにびっくり
しました。
 
それを知らない
くらいですから
お礼を
いったことは
一度も
ありません。
 
それどころか、
すまんと思った
ことさえも
ないのです。
 
そんな私を、
生かしずめに
生かしてくれた
ものがあるのです。
 
気がついてみると、
それがとまれば
死ぬ以外ない
 
いのちに
かかわる
呼吸さえも、
私の意志で
していたのでは
なかったのです。
 
心臓が止まれば
死ななければ
ならぬという
心臓だって、
 
礼も言わず、
うれしそうな
顔もしない
私のために、
 
夜も昼も、
一瞬の
休息もとらずに
働き続けていて
くれたのです。
 
その大きな
ショックの中で、
ハッと
思い出したのは、
それまで、
何気なく
読んでいた。
 
「凡聖逆謗斉廻入」
(ぼんしょうぎゃくほう
さいえにゅう)
 
という正信偈の中の
お言葉でした。
 
生かされて
いながら、
生かされて
いるとも
知らないできた
 
ぼんやり者の
私のことを
「凡」と
おっしゃるのだ
ということ。
 
「唯物史観」だとか
「無神論」だとか、
学問の端っぽを
かじって
偉いものになった
ような気になり、
 
「仏さまもくそも
あるものか」
などと、
高上がりしていた
私のことを
「聖」と
おっしゃるのだ
ということ。
 
せっかく寺に
生まれさせて
いただきながら、
 
仏さまに
尻を向けて
生きてきた
私のことを
「逆」と
おっしゃって
いるのだ
ということ。
 
罪の中で
一番深い
大きい罪だと
いわれている
 
仏さまを
謗る罪を、
あえて
犯してきた
私のことを
「謗」と
おっしゃって
いるのだ
ということ。
 
しかも
「凡」も
「聖」も
「逆」も
「謗」も
 
ひとしく
抱き取って
くださる
おはたらきの中に、
私が
生かされてきたのだ
ということ。
 
これに気づかせて
もらってみると、
どうにもこうにも
頭が
あがらなくなって
しまいました。
 
どこかのお寺の
幼稚園の五歳の
男の子の
つぶやきを
記録して
くださっているのを
思い出します。
 
  ○
「ぼくの舌 動け
というたときは
もう動いた後や
ぼくより先に
ぼくの舌
動かすのは
何や?」
 
というのです。
五歳で
こんな驚きを
驚く子があるのに、
 
私は、
二十五歳になって、
教え子のお蔭で、
このことに
気づかせて
いただいたのです。
 
私のような奴が、
おがまれ、
願われ、
祈られ、
ゆるされ、
生かされて
いたのです。
 
どうにもこうにも
頭が上がらぬ
思いでした。』
引用了
 
如何でしたか?
 
「斉廻入」
 
私もあなたも
 
老いも若きも
 
男も女も
 
善も悪も
 
気づいているか
気づいて
いないかに
関係なく
 
生きとし
生けるもの
すべてを
 
斉(ひと)しく
抱き取って
くださる
はたらきの中に、
 
生かされ
続けている
ことに
思いを廻らせ
 
感謝と報恩を
忘れては
ならないと
思うのです。
 
生かしていただいて
有難うございます。
 
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角田 政治
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