2014年3月31日月曜日

今、ここ、この瞬間を生きる

私たちは

うっかりしていますと

過去の出来事という

既に飛び立った

実体のないものに

脅かされ



未来という

来るか来ないかも

わからない

「いつか」に費やされて

いきます。



今の瞬間は

過去と未来に

覆い尽くされ

虚しく

消費されていきます。



それを

問い直して

みたいと思います。



私たちに

与えられた時間は

今、この瞬間しか

ありません。



昨日までは

終わりました。



明日は

来るかどうか

わかりません。



じかし

私たちは

明日はこれをやって

明後日は誰々と会い

あれをやると

決めていきます。



そして

何を着ていこうか

どんなことを

しゃべろうか?

これもやりたい

あそこにも行きたいと

あれこれ

思い悩みます。



そこに

ひょっこり

過去が訪れてきます。



「この前あの人に

会ったとき

こんなことを

言われたんだ!」



「あそこで

食事をしたら

店員の態度が悪くて

腹が立った!」等々

不愉快だったことが

浮かんできます。



もちろん

あれこれ

考えるのも

楽しいこともあるので、

一概に決め付ける

わけではありません。



でも

この今しか存在しない

貴重な時を

過去と未来に

占領されていきます。



もっと、

今を大事にしてください

確かな今を

思いっきり

感じてください。



今、この瞬間に

あなたと共に

この瞬間を表現している

佇まいを感じてください。



今、

目の前にいる人は

この瞬間を

あなたと共に

共有している人です。

感じてください。



今、

目の前にある建物や

歩いている道路や

その道の端っこに

咲いている草や花も

何もかも

この瞬間を

あなたと共に

生きています。

それを感じてください。



今、

目の前に

あなたに微笑みかけ

優しい言葉を

投げかけて

いる人がいます。

それを

確かに

受け止めてください。

そこに過去も未来も

介在させないでください。



今、

目の前に

あなたに鋭い眼差しで

罵声を浴びせて

いる人がいます。

それを

確かに

受け止めてください。

そこに過去も未来も

介在させないでください。



どちらの場合も

今、この瞬間を

生き生きと

表現しています。

それを受け止め

そして

受け入れてください。



それが例え

ストレスと感じることでも

それを受け入れて



自分自身にも

相手に対しても

決して批判を

向けないでください。

責めないでください。

裁かないでください。

批判に価値を

与えてはいけません。



裁いたり

咎めたりする思いが

あなたの

今の心の状態に

留め置くところの

元凶なのです。



相手から責められ

咎められているとき

あなたの心に

葛藤が起こるならば

それは、

間違いなく

あなたも相手を

責め、咎めている筈です。



決して

咎めない!と言うことは

相手が咎めても

あなたは咎めては

いけないという事です。



相手に批判されても

「批判するな!」という

立場にはないと

言うことです。

「批判するな!」と言った

瞬間から

「咎めるな!」と思った

瞬間から、

あなたは、

相手を咎めていることに

なるからです。



あなたが

今、この瞬間に

生きるということは、

今、ここで

あなたの人生を

創造していると

言うことなのです。



批判の中からは

価値のある

創造は生まれないのです。

この批判の思いから

離れなければなりません。



このちっぽけな世界に

あなたの意識を

閉じ込めてはいけません。

自我からの判断に

囚われてはなりません。



あなたには

内在する真我(神我)が

備わっています。

そこには小宇宙が

存在しているのです。

あなたの意識は

宇宙大に広がりを

見せるのです。



今、ここという

このかけがえのない

貴重な瞬間を

永遠の

そして

無限の悠久の時を

創造できるのです。



あなたの方が正しいと

思うからこそ

相手を批判します。

あなたが正しいことは

間違いないでしょう。



しかし、

相手も

あなたが正しいと

思うのと同じくらい

正しいのです。



この小さな枠の中に

あなたを閉じ込めては

いけません。



今日という

この瞬間を

あなたの自我からではなく

真我(神我)からの世界観を

自由に飛翔させてみては

いかがでしょう!



ありがとうございます。

2014年3月30日日曜日

“「苦」の実体は、仮相”

私たちの

この現象界においては

人生の四つの苦

「生、老、病、死」は

どんな方でも

例外なく訪れます。

(老は訪れないまま死を迎える方はいますが)



その避けて通れない宿命を、

お釈迦さまは

苦と定義しています。

更に、

この四苦に

四つの苦が加わると

説きました。

これが

「四苦八苦」の教えです。



「愛別離苦」(あいべつりく)

どんなに

離れたくないと思っても

この世においては

愛するものとの

離別は必ずやってきます。



これは、

私たちにとって

とても苦しい体験です。



今までも

たくさんの愛するものと

離別してきました。

これからも

この世では

今、愛している

大切な人や動物や

他の大切なもの達とも

離れることになります。

これは

避けることができません。



お釈迦さまは

それ以外に

怨憎会苦(おんぞうえく)

をあげています。

どんなに嫌いな人でも

どんなに心の中で

怨みや憎しみを

持っている人たちや

嫌なものでも

会いたくないと思っても

会わなければならない

苦しみです。

これも

この世においては

避けることのできない

ことです。

これも

大変苦しいことです。



次にあげられるのは

「求不得苦」(ぐふとっく)です。

求めても、

求めても、

欲しくても、

欲しくても、

得ることができない

苦しみです。

これも

誰もが体験することです。

この世では

避けることができない

苦しみでしょう。



そして

最後は

「五蘊情(盛)苦」

(ごうんじょうく)

があげられます。

五蘊とは

“五つの塊”

という意味です。



私たち人間は。

「色(しき)」

「受(じゅ)」

「想(そう)」

「行(ぎょう)」

「識(しき)」

の五つの塊に執着し、

それを「私」として

捉えています。



その「私」から

出てくるところの

さまざまな煩悩



いろいろあるのですが、

食欲であるとか

性欲であるとか

それらの欲が過ぎて

自分を制することが出来ず

心が燃え盛るような

苦しみを体験します。



やはりこれも

この世では

避けられない

苦しみとして

現れてきます。



この

「生・老・病・死」の

四苦

「愛別離苦」

「怨憎得苦」

「求不得苦」

「五蘊盛苦」を

加えて「四苦八苦」を

お釈迦さまは

説いたのです。



そして

それらの「苦」という

真理(苦諦・くたい)の

原因を「集」めて

(集諦・じったい)

苦を「滅」するという

(滅諦・めったい)

「道」として

(道諦・どうたい)

「八正道」を説きました。

これを

四諦(四つの真理)と言います。



「八正道」は。

正見(しょうけん)

正思(しょうし)

正思惟(しょうしゆう)とも言います。

正語(しょうご)

正業(しょうごう)

正命(しょうみょう)

正精進(しょうしょうじん)

正念(しょうねん)

正定(しょうじょう)の

八つの実践を言い、

この道の実践によって

悟りへの縁(よすが)に

繋がっていくと教えました。



お釈迦さまは

この世における

人間をこと細かに

分析されていて、

私たちが

理解しやすいよう

理論的で平易な

教えを

説いていることに

今更ながら、驚かされます。



2600年経た現代でも

古くならない

まさに

奥が深い教学という

感じがいたします。



この現象界においては、

「四苦八苦」は

避けることができない

宿命として

現れます。

その「苦」となるものの

原因を「集」め、

「滅」するための

「道」があります。

これが、「苦」を解く

実践の道「八正道」です。

この八つの徳目の

正しい道を

心がけることが

絶対の幸福への道へ

繋がっていくのです。



そして、

さらに

仏法は次の領域に

繋がっていきます。

「八正道」における

八つ目の徳目

「正定」(しょうじょう)です。

七つの徳目の実践を

通じて、

正しく定に入る

即ち、瞑想です。

仏のこころを

自らのこころとして、

統一する実践です。

ただ、ひたすら

自らの内奥に宿る

仏性に焦点を

合わせて行くことにより

至る本質への道です。



この世の

すべてのものは、

たえず移り変わり

一定のものはなく、

実体のないものなのです。



しかしながら、

私たちは

この世に執着し、

それが永遠に

続くと錯覚していきます。

そこに、

煩悩が生じてきます。



それが

苦しみの

原因になっていきます。



この世は、

無常であります。



瞑想において

仏と一体の境地、

涅槃の境地に至り、

人間本来のもつ

清浄ないのちを

自覚することこそ、

仏教の

最大のステージなのです。



実相の世界には

「四苦八苦」は存在しません。



お釈迦さまは、

そのことを悟られたのです。



この世という

仮相の世界における

人間の観念、

概念上に

「四苦八苦」はあるのであって、



本源・本質においては

存在しないということを

悟られたのです。



お釈迦さまは

この悟りによって

「宇宙即我」

「我即宇宙」の境地に

至り、

不滅の仏陀と

なられたのです。



あなたの

周囲に生起する

さまざまな出来事も

どんな現象も

永遠に続くものなど

存在しないのです。

苦しくて辛くて

とても耐えることができない心境に

陥ることもあるでしょう。



しかし、それは

仮相の世界での

出来事なのです。

錯覚なのです。

外なるものに

いくら中心を置いても

それは不毛なのです。



あなた方

一人ひとりに

備わっているところの

実相の世界をこそ

顕現するのです。

確実にあるのです。

そこを見れはいいのです。



今、この瞬間の

この時点から

「ここ」から「あそこ」へ

行くのではないのです。

「ここ」から「ここ」へ

行く道が必要なのです



ありがとうございます。

2014年3月29日土曜日

宗教について

宗教について
聞かれることが
多くなりました。

私の宗教についての
考え方を
少し話をします。

私も宗教団体に入会し
宗教活動も
経験しています。
その中で
いろいろな体験をし
勉強もさせていただきました。
その観点からしますと
宗教そのものに
反対する立場では
ありません。
古くから見ますと
イエスさまが
説いた教えも
お釈迦さまが
説いた教えも
おおもとは
根本神(仏)から
霊感を受けて説いたものです。
イエスさまや
お釈迦さまの
個性があって、
若干、表現方法は
違うところもありますが
本質においては
変わりません、
しかし
イエスさまや
お釈迦さまのレベルの
表現の違いは
何も問題はありませんが、
キリスト教においては
イエスさまの弟子たち
マタイさん
マルコさん
ルカさん
ヨハネさん
パウロさん
ヤコブさん
ペテロさん
そしてユダさんによる
書簡や福音書、手紙が
纏められて
生まれたのが
新約聖書です。
その弟子たちの
視点からの
イエスさまの
教えですので、
そこに
おおもとからの
ズレは生じます。
そして、
時代を経て、
国の勢力争いの中で
時の権力者が
統治しやすいように
都合の良い解釈を加え
システムを
加味していきます。
やがて、限定され
歪められていき、
イエスさまから
遠い教えに
なっていきます。
仏教においても
お釈迦さまは
教えを
書き残すことを
しませんでしたので、
お釈迦様の
入滅後
十大弟子である
マハーカーシャパさん
が中心となり、
アニルッダさん
スブーティーさん
プールナさん
カーティヤーヤナさん
ウパーリさん
ラーフラさん(お釈迦さまの一人息子)
アーナンダさん
の八人の弟子たちを中心に
他の弟子たちと一緒に
会議をして
教えを纏めていきました。
シャーリプトラさん
マウドガリヤーヤナさんは
お釈迦さまより
早く亡くなっていたようで
その会議には
参加していません。
教えについては
アーナンダさんが
中心となり
戒律については
ウパーリさんが
中心となり会議を
進めましたが
弟子たちの中で
戒律についての
考え方や
自己の悟りのみに
中心を置く信者と
この教えを大衆に
広げることに
中心を置く信者の
違いが明確となり
後に
それが上座部(保守派)と
大衆部(革新派)に
分裂をして
いくことになります。
大衆部から生じた
グループを
大乗仏教と言い
それに対して
上座部を小乗仏教と
いうようになりました。
その後
多くの経典が
作られています。
このように
イエスさまの教えも
お釈迦さまの教えも
時代を経て
いろいろな解釈が
されてきました。
キリスト教でも
カソリックや
プロテスタントと
分かれています。
実際に
宗教上の問題が
原因で生じた戦争も
今までたくさん起き、
政治的な
覇権争いに発展し
多くの尊い命を
犠牲にしています。
今でも、
何も変わっていません。
宗教という名の下に
殺し合いを
続けています。
結局
「神も仏もいるもんか!
いるんだったら、
なぜ、宗教同士の争いで
殺し合いをやっているんだ!」
となるのです、
私が
思いますのは、
教義が適用される
プロセスや背景に
問題があると、
思っています。
私たち
ひとりひとりに
神性(仏性)が備わっています。
その内在する神(仏)を
信じることこそ
究極の宗教です。
私たちと
神(仏)とを分離させ
外に神(仏)を
求めさせる教義は
また、
万人が
内に持つ力よりも
対象となる
特定の人間や物を
偶像として
力を与える教義が
問題なのです。
私たちは
ひとりひとりが
自らの内奥にある神性(仏性)を
自らが課した
あらゆる体験を通して
顕現していく
目的で
この現象界に
生まれてきます。
どんな苦難や困難
病や死にも
重要な意味が
隠されています。
その価値を経ずして
何かがあると
外に依存して、
その苦を
取り払おうとする行為は
自らが持つ神(仏)を
否定する行為です。
すべてとは
言いませんが
多くの
宗教の中に
神や仏と
私たちを分離し
神)仏)を恐れの対象にしたり
それを信じないものを
排斥したりします。
人間には
それぞれの
真理の発見の
仕方があります。
それぞれに
自分の問題集を
解いています。
真理に至る道も
それぞれです。
問題ではありません。
愛から発する、
あたたかみや
慈しみを感じ
共感できるものこそ
真理なのです。
最終的な判断は
私たちの
内なる声から
聞こえるところの
直感に従うことです。

いつも、
その声を
見逃さないことです。
自らの
頭脳が働かない
知性を黙らせる
環境を
それぞれのやり方で
創ってください。
瞑想をしたり、
好きな音楽を
聴きながら
静かに散歩しながら
鳥や虫の
鳴き声を聞きながら
アロマエキスを
楽しみながら
お風呂にゆったりと
浸かりながらでも
なんであろうと
自らの喜びの中心に
焦点を合わせて
その声に
耳を傾けてください。。
形や定義は
ものごとを明快にする
ためのものであり、
それに
囚われるための
ものではありません。
内なる静けさの中に
内なる真理の中に
自分のやり方で
入ってください。
内部のこの直感を
生み出す神性(仏性)は
元々
生まれながらに
持っているものです。
私たちの存在の
エッセンスなのです。
魂の叡智への宝なのです。
この内部の宝を
語らない
宗教団体からは
離れることです。
究極は
神(仏)と一体になる
プロセスなのです。
その道を
歩むことこそ
宗教と言えるのでは
ないでしょうか。
宗教を
金儲けの手段にしたり
教団の勢力拡大ばかりに
現を抜かす宗教は
宗教の名を借りた
企業体でしかありません。
私はそう思っています。
ありがとうございました、


*****************
角田 政治
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www.ageing-support.jp
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2014年3月28日金曜日

”人間の構成要素の基礎知識”

今日は

ルドルフ・シュタイナーさんを

共有してください。



シュタイナーさんは

ゲーテさんの研究家として

有名になりました。

その後、

ブラヴァツキー夫人の

「神智学」に加わります。

しかし、

シュタイナーさんは

少年の時から

自然科学や哲学を

勉強していて、

神秘主義的な部分を

もっと科学的に

解明したいと

考えるようになりました。

そこで、

精神世界を

科学することを

目的として、

精神科学「人智学」を

学問として

確立していきました。



シュタイナーさんは、

人間を

物質体

エーテル体(生命体)

アストラル体(想念体)

自我(個我)の

四つに分類しています。



日本の心霊科学などでも、

人間を

肉体

幽体

霊体

真体(本体)と

四つに分類します。



私たちの

身体というのは

物質体に

エーテル体

いわゆる生命が

入ることにより

構成されています。



アストラル体は

感受・情動・思念の

フィールドで

自我は

わたしという意識です。



シュタイナーさんは

人間を

身体

心魂

精神の

三つに

分類することもあります。



身体は

四つの分類で

先ほど書いたように

物質体と

エーテル体のことであり、



心魂は

感情的・主観的



精神は

思索的・客観的なものです。

いわゆる

アストラル体のことであり、



自我については

心魂の中で活動しながら、

広大な精神の領域(神性)に

触れている。

と言っています。



私が

いつも

書いているところの



「私たちの内には

無限で永遠の存在

究極の愛と光の存在が

宿っています。」

に通じています。



シュタイナーさんは

さらに

物質界

心魂界(欲界)

精神界(神界)の

三つの世界を

分析しています。



仏教では

欲界

色界(しきかい)

無色界(むしきかい)

と分類し、



欲界は

物質界と

心魂界を含んでいます。



色界は

精神界の下位領域



無色界は

精神界の上位領域を

指しています。



肉体の死を迎え

生命体が

物質界から離れます。



その後

数日間で

自らの人生のすべてを

まるで、

走馬灯のように

映画を見るが如く

見ると言います。



数日間というのは

物質界における

時間的観念で

自分が

起きていられる日数で

3~4日間だそうです。



そして

心魂界に入って



さらに

道徳的・道義的観点から

自らの一生を

内面的に

辿っていきます。

自らの過ちを点検し

反省しながら、

徐々に

浄化していきます。



この期間を

シュタイナーさんは

人間が一生の内で

眠っている時間と

同じとして、

人間の寿命の

三分の一くらいと

言っています。



心魂界で

自らが為した行為を

された相手の立場で

追体験をします。



その償いによる修整を

するために「運命」を

背負い地上に再び

生まれてくる

準備をします。



そこで、

精神界に入って

高次の方たちから

薫陶を受けたり

活動を通して

学んでいきます。



やがて、

準備が整い

新しい地上生活を

体験するために

再び降りてくるのです。



人間は原則として

2160年間に

二回の輪廻をすると

言っています。



2160年間というのは、

春分点が

黄道十二宮の一つを

通過するのに

かかる期間だそうです。



しかし、

これは原則であり

必ずしも

そうとは限りません。



人生の

自分だけの

問題集や設計図は

この精神界で

綿密に練られ

書かれるのでしょう。



次の生の課題を決めて

その課題を

克服するために

最もふさわしい

国や環境

両親さえも選択し

創られていきます。



その観点に立った時

今、起っている

苦難・困難と

感じているものは、



自らが

自らに課した

修整のための

機会であるのです。



二度と同じことは

繰り返したくないでしょう。



シュタイナーさんの言う

心魂界で

見る映画は

自分が主人公の

感動のシーンが

いっぱい詰まった

名画にしたくは

ありませんか?



今からでも

遅くはありません。

今日の今の瞬間から

生きている

確かな実感の今、

この時を感動の時に

すればいいのです。

2014年3月27日木曜日

自殺の意味するもの

一昨日

胸騒ぎを覚え

3から4年ぶりに

ある友人に電話をしました。

しかし携帯電話は

不通になっていました。



それで

電話帳を探して

自宅にも

電話をしてみました。



電話は通じ

奥さんが

電話口に出られ

「主人は亡くなりました!」

とのお話でした。

なぜ?亡くなったのか

聞いてみましたら

「心筋梗塞で亡くなりました!」

との返事でした。



様子が不自然に感じましたので

少し昔話をして

奥さんの心が

落ち着くのを待ちました。



「実は主人は自殺でした!」

と嗚咽されました。

借金苦からの逃避でした。

家族には保険をかけてあって

「この方と、あの方だけは

お金を返してあげて欲しい!」

と、家族一人ひとりへの

侘びの言葉とともに

こう、書かれていたそうです。



「その方達は

自分達が借金までしてくれて

苦労をして貸してくれた!

決して余裕などない方達なので、

長い間、迷惑をおかけしました!

と僕が言っていたと伝えて欲しい!」



自らが死を覚悟しても

人に対する配慮ができる

立派な方でした。

心から冥福をお祈りいたします。



皆様の中にも

一度や二度は

自殺を考えた方も

いることでしょう。



ただ、

本質の価値観

永遠性の観点から

この自殺の

意味するものは

どうでしょうか?



これらの文章を通じて

一貫して

語っていることは

私たちの

この人生の目的は

何かというと



本来備わっている

神性を

躓き転びながら、

また、

打ちのめされながらも

思い出す道であります。



私たちは

永遠性の中で

魂を進化させる目的で

自らが

環境や性別

両親や家族

肉体的能力

精神的能力

感情的能力

時間という要素を

選択し、

実体化させています。



魂の

あらゆる部分の設計は

学ぶために

自分にとっての、

最適な環境を

作り出しています。



永遠性の観点

輪廻転生の観点から

この自殺の意味は



自分で選んで

設計した

人生の設計図を

自らが

破棄することになります。



一冊しかない

人生の問題集を

解くのを停止する

ということになります。



この設計図に沿った

あなたの人生は

あなただけにしか、

歩むことはできません。

誰も、

変わって歩む

ことはできません。



この、

あなたの問題集は

誰も、

解いてあげる

ことはできません。



この

歩むのをやめたために

使わなくなった

設計図や

解かなかった

問題集は

一体、

どこにいくのでしょうか。



次の生、

来世に持ち越しとなります。



あなたは、

繰り返しの人生を

送りたいでしょうか?



絶望感や

恐怖感や

不信感や

不安感や

嫌悪感等々

不満足な部分を持ったまま

今生を絶った時、

それは、

未来世に

先送りになります。



あなたにも

これからも

現象的には

いろいろな

苦難・困難が

目の前に

立ちはだかってくるでしょう。



しかし、

あなたが

肉体を持ち

人間という

制限された

存在形態を

とっているのは、



その制限された形で

受け取る

必要があると

いうことを示しています。



あなたは

今回の人生で

実力をあげ



嫌悪感や不安感を払拭し、

本質の光を照らし出し、

愛をいっぱい持って、

故郷に凱旋したいものです。



今生を終えるとき



すべてのものと和解し

すべてのものに感謝して

旅立ちたいと

心より願っています。

2014年3月26日水曜日

慈悲とは

マザー・テレサさんは



「世界平和のために

何をしたらいいのか」と聞かれて



『帰って家族を

大切にしてあげて下さい。』

と答えられました。



私たちは、

今生、

縁あって

出会うことが

できた人たちを

大切にする。

愛していく。

信頼していく。



小さなことだけど

精一杯の大きな愛で

大切にする。



家庭で

地域で

職場で

今日、

出会った人々や

植物や

動物たちを

大切にする。



真理は

何も特別なことでは

ありません。



今日一日

愛の言葉や

慈しみからの

行いの実践こそが



すべての平和に、

繋がっていくのです。

お釈迦様は

慈悲を説かれました。



慈とは

慈しみの心

それは

他の人の幸福を

心から願う心

楽(幸せ)を与えたいという

与楽の心



悲とは

悲み(あわれみ)の心

それは

他の人の苦しみや

悲しみを

取り除いてあげたいという心

抜苦の心



慈も悲も

どちらも

与楽であり

また抜苦でもあります。



抜苦与楽(ばっくよらく)の

教えです。



さあ、あなたが

今日これから

出会う人たち一人ひとりに

慈悲の心で

接してみてください。



そして

『帰って家族を

大切にしてあげて下さい。』



あなたの元に

平安が訪れますように



ありがとうございます。

2014年3月25日火曜日

習慣的な考え方を問う

あなたはいびきをかきますか?



わたしは、相当大きな

いびきをかくようです。



若い頃

よく仲間と

一泊ゴルフ旅行をしました。

そんな時、

大きな部屋で

一緒に寝ることになります。



寝ると共に

いびきの大合唱が

始まります。



「うるさいな!寝れやしない!」と

心で思い

我慢をして、

眠れない夜を過ごします。

明け方になって

やっと熟睡します。

ものの1時間もたたない内に

起床!となります。

眠気で

頭がボ-ッとなりながら、

食欲もなく朝食を取り

プレーをする。

気分は最低!

スコアは目茶目茶!



「あいつのあのいびきのせいだ!」

こんな、経験ありませんか?



日常的によくある

出来事だと思います。



私の場合は

一度だけこの最悪の状態になりました。

「あいつの首を絞めたろか!」と

思いました(笑)。



一度だけと言うのは

どういうことかと言いますと、

この体験をした日の

翌日に

電車に乗っていて

眠気を催し

目的地の3駅を飛ばしても

気づかず爆睡してしまったのです。

その日のその時間は

絶対に外せない

大事な用事がありました。

急いで駅を降り、

その駅からタクシーに乗り

目的地に行き

事なきを得ました。



私は思いました。

大事な用事があり、

頭でそのミーティングの

組み立てをし、

意識全開で

電車に乗りました。

それなのになぜ?

あんなうるさい電車の中で

爆睡したのだろう?

「次は新宿!新宿!

○番線到着!」等々

運転士さんの

スピーカーの大きな声や

着いた時の呼び鈴の音や

出発するときの音や

いろいろな騒音が混じっている中で



「よく寝れたもんだ!

いびきなんか比べ物にならないぞ!」

そう思ったのです。

言われてみれば

よく、電車で

うたた寝をしている人は

結構いるでしょう!



そこで分析を始めました。

よく考えても結論がでません。

「いびきは嫌だから嫌なんだ!」

という思いだけ!



なぜ、そう思ったのでしょう?

「いびきは、うるさい!」

「いびきは、安眠を妨げる!」

「いびきは、良くないもの!」

という、刷り込みが

どこかで起ったのだと思いました。



親からなのか?

兄弟からなのか?

いびきを抑える

器具かなんかの

TVのCMや

マスコミの記事からか?

そう思っているうちに、

「くだらん!いびき位に

影響されるのはやめよう!」

と閃きました。



それ以来、

どんな、

いびきの襲来にあっても

気にならなくなり、

眠れるようになりました。



それはそうです!

人やマスコミに

影響されることで、

自分の考えまでも

決める必要はないのです。



人は習慣的に

人と同じというモノサシで、

自分の基準を

計り続けています。



いびきだけでなく

私たちには、

そういう傾向が

あるのではないでしょうか。



いびきなんか

大した問題ではありません。

よーく、聞いていると

いろいろないびきがあり、

結構、楽しめるものです。

いびきのCDを

出したいぐらいです。



いくら騒音といっても

電車の中や

パチンコ屋さん

ディスコや

カラオケなんかとは

比較になりません。



可愛いものです。

受け入れてしまえば

いいのです。

眠れないよりも

眠れた方がいいですよね!



受け入れたものは、

もはやあなたの外にはなく、

あなたと一体です。

一体となったものから

ストレスを

感じることはありません。



受け入れたものは、

味方になるのです。

あなたと

分離することはありません。

同化した時に

音はあなたの一部となり

心地よい安らかな

眠りに誘うのです。



私たちは

意識をしないまま

受け継いできた

習慣的な考え方を

自分の考え方として

捉えがちです。



自分にストレスを

与える出来事への

対処の仕方に

習慣的な考え方が

働く傾向にあります。



その傾向で考えている

ストレスや

被害や分離感は



その原因となる

出来事を

受け入れたとき

瞬時に同化し

解決していくのです。



宇宙には

良いも

悪いもありません。

宇宙は

ただ在るだけです。

あなたは自由なのです。



それを犯しているのは

あなたの考え方なのです。

あなたの外にあるものは、

あなたに害を

与えることは

絶対にできません。

敵はいつも

あなたの内にあるのです。



ありがとうございます。




*****************

角田 政治

携帯番号:080-3085-4801

www.ageing-support.jp

*****************

2014年3月24日月曜日

“優れた人たちに会いにいきませんか!”

あなたは

本当に

いい時代に

生を享けたと

思いませんか?



お釈迦さまがおり、

イエスさまがおり、

孔子さまや

ソクラテスさん

ゲーテさんや

シュタイナーさん等々



人生を探究し

自己を分析し

真理をつかんだ人たちの

学びを瞬時に

得ることができる

この時に

生を受けたのですから。



聖なる見識を

築いてくれた

この優れた人たちは

あなたのために

生まれたのであり、

あなたのために

人生を用意してくれた

人たちです。



この優れた人たちは

自分の人生を通じ

苦労を重ね

その体験から

真理を発見したのです。



そのお陰で

闇の中から

まばゆいばかりに

光り輝く

世界へと

導かれることが

できるのです。



あなたに

お釈迦さまが

優しく語りかけ



イエスさまが

愛を投げかけて

くれています。



孔子さまから

勇気を授けられ、



ソクラテスさんと

対話もできます。



ゲーテさんから

安らぎを得て



シュタイナーさんから

知を与えられます。



2600年前

お釈迦さまは

お弟子さんたちに

口伝で教えを

説きました。

お弟子さんたちは

一言一句も

聞き逃すまいと

全神経を集中して

お釈迦さまの説法を

聞いたのです。



あなたは

その2600年前に

戻らなくても

お釈迦さまの

叡智に学び

叡智に生きることが

できるのです。



あなたは

時代を超えて

優れたる人たちが

生きた時代に

いつでも

交わることが

できるのです。



あなたは

時々刻々と

過ぎていく

はかなく移ろう時から

あなたを

切り離し



永遠なる

無限なる

真理を

学ぶ時間に

あてていけるのです。



いかなる時代からも

優れたる人たちと

偉大なる学びを

自由に得ることが

できるのに

それをしないことは

本当に

勿体無いことです。



優れたる人たちは

あなたさえ

その気になれば

昼間だろうが

深夜だろうが

いつ尋ねても

必ず居てくれるのです。

誰一人として

留守はしないのです。



いつでも

会ってくれるのです。

手土産を持って

いかなくても

レッスン料を

払わなくとも

毎日でも

親しく愛をもって

接してくれるのです。



優れたる人たちは

あなたが

素直に望むのであれば

近づく者を

より一層幸福にする

永遠の真理を

授けてくれます。

決して、

あなたを手ぶらで

帰すことは

ありません。



優れたる人たちは

あなたが

望むのであれば

何でも

惜しみなく

分け与えてくれます。



優れたる人たちを

友とし師とする者は

さまざまな苦難・困難の

出来事の中でも

あなたと在ってくれ

共に考え

あなたに

アドバイスを

与えてくれます。



何回も同じことを

問うても

間違った

返答をしても

決して

咎められることは

ありません。



あなたは

その優れた人たちの

養子として

認知して

もらえるのです。

すべての

財産と共に

この財産は

人に分けても分けても

決して減ることは

ありません。

却って、どんどん

増えていくのです。



あなたは

永遠なる道

決して失うことのない

愛という

財産の相続人なのです。



それを得たものには

限界はなく

無限の宝

不滅の宝を

見つけることが

できるのです。



いかがでしょうか?

あなたは

本当に

いい時代に

生を享けたと

思いませんか?



今日、

優れたる人たちに

会いに行ってみませんか。

満面の笑顔で

待っていてくれますよ!



ありがとうございます。

2014年3月23日日曜日

“異性との関係性の意味”

私たちの
人生の中で
欠かすことの
出来ない存在
それは
異性の存在であります。
異性によって
愛のレッスンを受け
生長していくのです。
人を愛することについて、
詩人のリルケさんは
『誰かを愛すること、
それはとりわけ困難な課題である。
すべての努力はそのためにある。
それはわたしたちを成熟へと強く促し、
有無を言わせぬ力で、
わたしたちを選び出し、
大いなるものへと向かわせる。』
こう書いています。
私の人生に於いて
若いときには
わからなかったことも
今なら、
少しは理解できるように
なってきました。
なぜ、
リルケさんは
「困難な課題」と
言ったのだろう?
若いときには
よく、
理解できませんでした。
若いときは
相手を
思いのままに操ったり、
うまく乗りきろうと
していたのだと
思います。
表面的な関係です。
自我による
異性との関わりです。
思いのままに
操るどころか
却って問題を
こじらせていきます。
うまく乗り切るどころか、
乗り切れず、
その問題の堂々巡りを
繰り返す
羽目に陥ります。
人は
自我による困難を
体験しながら、
少しずつ
成長していくのです。
そして
『わたしたちを成熟へと強く促し、
有無を言わせぬ力で、
わたしたちを選び出し、
大いなるものへと向かわせる。』
のです。
異性との関係は
あこがれ
性の衝動
独占欲
信頼と猜疑心や嫉妬心
希望と絶望
安心と危険
愛への執着
いろいろな課題を
私たちに提供します。
人は自我にあるとき
これらの課題は
大きな苦しみとして
私たちを
襲ってきます。
特に
異性との関係において
性急に
解決を求めて
いかないことです。
私たちの心の中の
未解決の問題に対して、
辛抱強くあることです。
簡単に解っては
いけないのです。
解らないことそのものを
愛するのです。
大切なのは、
今を、
全力で生きることです。
やがて気づかないうちに、
解決していくのです。
自我を手放したときに
その問題は問題でなくなり、
自らの成長が
そこにはあるのみなのです。
異性との関係は
私たちにとって
根源と結びつくために
欠かすことのできない
条件のひとつと
いうことができます。
深いレベルで異性が
結びつこうとすることは、
それは
単なる、
生活の維持や
安全のためではなく、
本質の目的である、
私たちの意識を
進化させるための
大きな意味合いを
持つことになります。
逆に、自我のまま、
異性との関係を
慰めや
安心のために
まず利用するとしたら、
そこには、
行き詰まりしかありません。
私たちは
ますます課題の罠に捕まり、
執着による恐れや
猜疑心は深まっていきます。
異性との関係を、
大いなる目覚めと
慈愛と魂を育む道のりと、
自覚するとき、
愛のもたらす試練を
乗り越えていくための
新しいヴィジョンと
インスピレーションが
発露してくるのです。
愛する人との
結びつきは、
本源へ向かう旅の中で
愛の持つ
真実の力を知り
生命の深い力を知る
縁(よすが)となります。
お互いに与えた
それぞれの問題集(試練)と
取り組みながら
確かな足取りで
一歩一歩と
進んでいきます。
どんな事があろうとも、
自分たちの関係を
諦めないことです。
何かがあったから
諦めるのは、
人生とはいえません。
いさかいは
それまでの
限界を乗り越え、
新たに大きく成長
していく条件として、
現れているに
過ぎないのです。
人が生長していくのは
どうしても
リスクは伴うものです。
しかし、
そこからの
実りも必ずあります。
はじめの
リルケさんの詩にあるように
『それはわたしたちを成熟へと強く促し、
有無を言わせぬ力で、
わたしたちを選び出し、
大いなるものへと向かわせる。』

まさしく、
その通りなのです。
ひとたび、
大いなるものへと
人が向かうとき、
お互いの関係は
無限に深まり、
お互いの
人間性は広がり、
人生のすべてに
対して柔軟になり、
生きることへの愛と
感受性を
増していくように感じます。
あなたが
異性との関係を、
つねに
お互いに、
大いなる意識を
育てる観点に立つならば、
さまざまな苦難・困難は
たんなる障害物では
なくなるのです。
それは、
自我が持つ闇に
光をあて
私たち
一人ひとりが
持っているところの
内なる宝物である
やさしさ
思いやりや
慈しみ
そして寛大で
大らかな心
リスクを恐れない勇気
耐え忍ぶこころを
発見するために
現れてくれるのです。
異性への愛は
あなたを
否応なく
目的地に誘います。
ひとりで行く旅より
ふたりで石につまずき
水溜りに
足を取られながらも
行く旅は
人生を何倍も
広げてくれるでしょう。
結婚していようがいまいが、
同居しているかは
関係ないのです。
どんな関係でも
離れていても
同性は勿論のこと
価値を共にする異性を
大切にし
共に大いなる道へ
向かっていきましょう。
今日も、
ありがとうございました。

2014年3月22日土曜日

“出来事の持つ意味”

あなたの
目の前に起こる
あらゆる出来事に
「良い出来事」や
「悪い出来事」は
存在しません。
そういうと、
「そんなことはない!
現実にあるじゃないか!」と
反論をくらいそうです。
ただ、
あなたが
「良い」
或いは「悪い」と
判断する出来事が
起こっただけなのです。
あなたの感情と
あらゆる出来事は、
リンクしている
わけではありません。
その生起する
感情が
あなたの持つ
「良い」「悪い」
「好き」「嫌い」を
現わしています。
それを、
出来事によって
知らされているのです。
私たちが
過去から影響を
受けてきた
習慣的な感情を
起こる出来事によって
見せられているに
過ぎないのです。
その
湧き上がってくる
感情を
見つめてみてください。
それは、
否定的な感情ですか?
それとも
肯定的な感情ですか?
「良い出来事」と
感じますか?
「悪い出来事」と
感じますか?
祝福の心が
湧きあがってきますか?
嫉妬の気持ちでしょうか?
どんな感情が
出てきたとしても
それは
あなたの内側の価値観で
判断を下した結果
起きてくるものです。
ですから、
その感情により
嫌な気持ちになったり
憂鬱になったり
した時に、
その感情を
どうにかしたいと思って
その
マイナスの感情に
外側から
頭脳でいくら
捏ね繰り回しても
さらに、
力を与え、
マイナスの
スパイラルの中に
嵌っていってしまいます。
起こってくる感情は
本質では
ありません。
判断によっては
良くも
悪くもなるものが
本質である訳が
ありません。
本質を知るための
手がかりとして
現れているに
過ぎないのです。
気づきを得るための
縁(よすが)として
現れています。
ですから、
いくら
出来事の
対象であるところの
人や環境に
焦点を
当て続けたとしても
マイナスの感情は
拡大するだけに
なってしまいます。
あなたの内奥にある
本質をこそ
探らねばなりません。
あなたの
真実の源泉を
見なければなりません。
その完全性からの
情報を
上書き修正し、
感情の質を
変換させるのです。
その真実の源泉は
すべてが
神聖なる秩序の中に
存在しております。
その場所に
争いや
憎しみや
怒り
妬みは
存在しません。
平和と
赦しと
調和と
慈愛に満ちた場所です。
すべてものが
完全なのです。
あなたは
その出来事によって
恐れや
否定性の感情の
手がかりや
あらゆる低い振動に
属する思いを
高い愛という
源泉の本質に
変えていくための
チャンスを
与えられています。
混沌から
新たな創造が
浮上するのです。
今という瞬間こそ
あなたの
より高い自己に
目覚めることができるのです。
明日はないのです。
今日の出来事は
あなたにとって
完璧な出来事なのです。
ありがとうございます。

2014年3月21日金曜日

“こころに愛と滋養を”

今日は、

三連休の初日です。

お仕事がお休みの方も

多いことと思います。



今日は

太陽が微笑みながら

明るい陽射しを

届けてくれそうです。

気持ちの良い朝を

迎えています。



この太陽の光を

受け取るとき

内部の力が

自然と

漲ってくるのを感じます。



こういう時は

ちょっと

散歩をしながら

自然を感じられる場所に

出かけてみるのもいいですよね。



そこで

思い思いの

好きなことを

やってみては如何でしょう。



緑の木々が

お日さまを浴びて

やさしい木漏れ日を

届けてくれています。



花々が

それぞれの装いで

私たちの目を

そして心を癒すために

待っていてくれます。

桜もお住まいの

場所においては

開花しているそうです。

梅の花は枝が見えないくらい

咲き誇っていることでしょう、。

想像するだけで

わくわくしてきませんか。



水面は

光のプリズムをつくり

涼しげに

そっと

あなたの内面へ

語りかけてくれます。



鳥たちが

それぞれの音色の

メロディを囀り

それらを育む

大地は

あなたの

足元から

エネルギーを

運んでくれます。



この

自然の織りなす

ハーモニーの中の

中心に

自分を置くとき、

あなたの存在の本質を

感じることができます。



そこには

内面から湧き上がる

歓びがあり、

眩いばかりの

美しさがあり、

安らかな

至福感に包まれます。



それは、

すべての本質の

それぞれの要素が

あなたの内面に在る

核心を承認して

祝福しているように

感じられます。



その確かな存在感の中に

身を置きながら、



思い思いの

好きなことを

感じるままに

浮かんでくる言葉を

書き留めてください。



自然の呼吸を

キャンバスに

描いてください。



ベンチに座り

目を瞑り

自然とひとつに

融合してください。



そして、

内面からのささやきに

耳を傾けてください。

それらが、

インスピレーションを促す

よすが(縁)となり、

魂の滋養となっていくのです。



今日は、

あなた自身を大切に

敬い、

そして、

愛してあげましょう。

あなた自身に、

愛と滋養を与えましょう。



今日、

存分に

こころを開放して

愛を感じてみませんか?



自分を愛して

初めて

この愛を

他の人々と共有する

ことができるのですから・・・



ありがとうございます。

2014年3月19日水曜日

「私とは、何者か?」

あなたは

今まで

両親をはじめ

兄弟

友人

近所の人たち

先生や

会社で出会う人たちを

含め多くの方と

出会い

いろいろな体験をして

様々な

影響を受けてきました。



今もその影響を

受け続けています。



そして、

「あなた」というものを

確立していきます。



お釈迦さまは、

2600年前

私とは何者か?という

テーマに対して

五蘊(ごうん )の

教えを説かれました。



五蘊とは

“五つの塊”

という意味です。



私たち人間は。

「色(しき)」

「受(じゅ)」

「想(そう)」

「行(ぎょう)」

「識(しき)」

の五つの塊に執着し、

それを「私」として

捉えています。



この教えは

「自我」を分析して

弟子たちに語ったものです。



一つ目の

「色蘊(しきうん)」とは、

姿かたちのことで、

肉体を現わします。

私たちは

肉体こそ「私」と執着します。



私たちは

今までの人生を

この肉体を維持するため

この肉体を喜ばせるために

食事をし

服を着て

家を確保してきました。



世界中の財産は

ほとんどが

この肉体のために

使われています。

さらに、

もっと、もっとと

執着していきます。

際限がありません。



しかし、

この「私」と思っている

肉体は

生命が離れた瞬間から

ただの亡骸に過ぎません。



また、

どんなに若くて

美人で

すばらしい肉体を

持っていても

老いや病からは、

離れることはできません。



肉体とは

そのように

変化をし続けていく

物体に過ぎないのです。

そこに「私」という

実体はありません。



二つ目は

「受蘊(じゅうん)」です。

受蘊とは、

感覚の塊のことです。

眼・耳・鼻・舌・身の

五感すなわち

五つの感覚器官が

感じるものを

「私」と思います。



これも、

際限がありません。

もっと、もっとと

気持ちのいい感覚を

求めていきます。



そうやって、

私たちは

感覚に執着していきます。

常に、

変化し続けています。

そこに「私」という

実体はありません。



三つ目は、

「想蘊(そううん))です。

想蘊とは、

知識の塊のことです。

意識しなくても

知っているはたらきです。



私たちは

様々な人たちとの出会いで

様々な経験の中で

これが「私」と

固執していきます。

それは、

妄想に過ぎないのです。



例えば、

子供の頃、

陰湿ないじめに

遭っていたとします。

その対象にある

当時の加害側の子供の

表情や言葉を

思い出して

今でも、

苦しみ続けています。



それは、妄想であり、

知識の執着であります。



しかし、これも

常に、

変化し続けています。

そこに「私」という

実体はありません。



4つ目は、

「行蘊(ぎょううん)」です。

これは、

行という

心のはたらきの塊です。



私たちは

常に何かを考えています。

「何かをしたい!」と考え、

その何かを行い、

また何かを行うと

また、

「何かをしたい!」と考えます。



ただ、「何かをしたい!」と

考えているだけなのに、

そこに意味づけをして、

あらゆる感情を

作り出していきます。



それは、

行の執着です。



そこに

落ち着いた状態は

存在しません。

常に、

変化し続けています。

そこに「私」という

実体は存在しません。



5つ目は、

「識蘊(しきうん)」です。

識蘊とは

認識の塊のことです。

受蘊が

眼・耳・鼻・舌・身の

感覚作用のことを

言いましたが、

この識蘊は“意”即ち

心の働きのことです。

いわゆる

見たり、

聞いたり、

嗅いだり、

した感覚を

心で認識する

作用のことです。



例えば、

女性を見て

視覚として感じたものに

比較のための

「きれいな女性だ!」と

価値基準を

与えているのが

識蘊です。



ようするに

受蘊や想蘊や行蘊の

はたらきを得て

情報を流している

作用のことです。



それは、

認識という

心のはたらきの執着です。



この認識という

心の作用も

一瞬、一瞬と

変化をし続けていきます。

そこに、

「私」という

実体はありません。



如何でしょうか?

この“五蘊”という

お釈迦さまの教えは、

いつも

「私」と思っている

その「私」は何者なのか?と

問うているのです。



この教えは

すべて、

あなたが

今まで

体験してきたことが

ベースになっています。

いわば、

過去の体験なのです。

過去、

体験したことが

執着として

現れている「あなた」に

囚われているに

過ぎないことを、

仰っています。



その執着は、

“苦”の源泉になります。

「自我」なのです。

それは、

偽者の「あなた」です。

「偽我」なのです。



この三次元という

現象の世界に

現れている

あらゆる出来事や

人々は

変化し続けるのです。

移ろい行くものです。

幻想に過ぎません。

実体はないのです。



実体のないものに

無用な力を

与えてはいけません。



そのことを

2600年前に

お釈迦さまが

“五蘊”という教えで、



非実在の「私」を

分析し喝破したのです。



無明の「私」を

仏の道をいく「私」へ



究極的な平安

永遠の安らぎ

無限なる高みに

至る「私」へと導く

仏我の道

涅槃への道を示したのです。



さあ、

あなたが

確立した「あなた」とは

自我からの「あなた」ですか?

仏我からの「あなた」ですか?



真実のあなたは

仏我(神我)のあなたなのです。



過去の

延長線上に

「今」があるのでは

ありません。



真実は、

「今」という瞬間

この確かな瞬間しか

実在していないのです。



この「今」という

瞬間に

仏我(神我)は顕れます。



その瞬間、

言語では

言い現すことのできない

平安と安心が

魂を支配していきます。

満ち足りた

愛の光を受け取ります。



そして、

受け取る者が、

与える者となり、



受け取る魂が

“一なる本源”と

同期し、

そして、

永遠なる

無限なるものへと

飛翔していくのです。



今日も読んでいただいて、

ありがとうございます

2014年3月18日火曜日

“苦難・困難の意味するもの”

あなたは
困難・苦難と思える
出来事に出遭った時、
どう考え、
どう対処するでしょうか?
尻込みをして
逃げ出すでしょうか?
それとも
積極的に受け入れ
自分の
一冊の問題集として
教育的観点
学びの機会として
取り組みますか?
どちらを選択しますか?
この観点は
あなたの人生にとって
重要な
キーポイントに
なってまいります。
仏教においては
業(カルマ)の法則という
教えがあります。
私たちの
輪廻の中での因縁で
過去世に為した罪障を
(未解決な問題)
刈り取る意味合いで
今世、
さまざまな困難・苦難が
生起するという法則です。
この世という
括りだけで考えたなら
なぜ?
何も
悪いことを
していないのに
こんなにも、
次から次へと
苦難・困難が
立ちはだかるのか?
そう思うかもしれません。
しかし、
自らが為した行為は
今生では
思い出すことは
できないとしても、
責任を回避した問題は
学び、
説き終えなければなりません。
これは、
厳然とした事実として
我々の眼前に現れてきます。
しかし
さらに
付け加えたいと思います。
人間は因縁と言う
言葉に重きをおいて、
覚えていない過去に
囚われ過ぎる
必要はありません。
嫌な事があれば
自らの為した
前世からの
借金の反射だと
悲観するのではなく、
これから、
良いことが起こる
貯金をしているのだと、
考えて頂きたいのです。
未来に備えて
霊界銀行への貯金を
しているのです。
この起っている
苦難・困難は
チャンスなのです。
折角、
霊界銀行の
複利の貯金ができる機会を
逃すことは
もったいないのです。
そう考えて頂きたいのです。
このような、
徳を積むという
意味合いもあるのです。
あなたの目の前に
どんなことが起ろうとも
苦難・困難が
立ちはだかろうとも、
それは、
所詮は一過性のことなのです。
その、一過性のものごとに、
永遠の意味づけを
与えてはなりません。
人生に顕れるところの
あらゆる体験は
真実の光を
輝かせるためのものです。
あなたに
障害物を持つ
苦しさを知らせ
それを
乗越えることを
促します。
すべてが、
一なる本源
向かう道なのです。
その神聖なる目的を
知ったとき
最早、
障害物は存在しません。
苦難・困難は
幻想でしかないのです。
それは
究極のレベルにおいては
導きそのものなのです。
苦難・困難何するものぞ!

今日一日、
生かしていただいて
有難うございます
有難うは難が有るのです。
だから、
有難うございます!なのです。
難は避けるものでは
ありません。
積極的に受け入れた時
もうそこには、
苦難・困難は消え失せ、
有難うございますの
感謝の想いが湧いてきます。
ありがとうございます。

2014年3月17日月曜日

“至福のこころ”

私たちは、
心の内奥に
神の性質を宿しています。
その神の性質を
顕した時
人は
この上ない
至福感を得ます。
この至福感を
思いっきり
感じてください。
それは
静かな時と
意識を
あなたが感じる
一番幸せな場面に
焦点を当てることで
可能になります。
心を空っぽにして、
頭脳を使わずに
ただ、そのものへ
今、この瞬間に
感じてみてください。
意識は創造力です。
すべてを生み出す
力の源泉です。
そこに
至福感を感じてください。
焦点を
喜びに
深い大きな愛に
無限に
久遠に
合わせるのです。
同調するのです。
同期するのです。
波長同通するのです。
あなたには
神そのものの
生命エネルギーが
満ち満ちているのです。
それを、
充分に感じてください。
その感じた
生命エネルギーを
人々に
生きとし生ける
すべてのものに
分け与えてください。
あなたが感じなければ
分け与えることはできません。
あなたが感じた至福感を
その心のままで
接するのです。
それが、神の座、
心の真ん中に
在るということなのです。
あなたの
目で見えている世界
頭脳で考えている世界は
単に
自分の五官が
捉えているに過ぎません。
そこにばかり
エネルギーを
注ぐのは
非現実な事に
力を与えている
ということです。
そこに
心配がはじまります。
心を配るから
心配が始まるのです。
負のエネルギーの
連鎖が始まるのです。
心を中心に置いて
その存在のままに
エネルギーを放射し
与えるのです。
受け取る側との
波長同通です。
お互いに
引き寄せるのです。
そこに統合が
生まれてくるのです。
安全で
永遠な
そして無限に
平和と安心が
満ち溢れてくるのです。
今までの人生
どんな困難。苦難と
見えようとも
進化のための
一里塚です。
通過点にすぎません。
今日、
至福の時を感じる日なのです。
ワクワクしながら
今日を確かに生きて
いや、
生かさせていただきましょう。
有難うございます。

2014年3月16日日曜日

「光は不滅です!」

わたしたち

ひとりひとりの内には

神性が宿っています。



「神性、汝の内にあり」

「霊性、汝の内にあり」

陽光燦然と輝く

光の種が

すべての人に

分け隔てなく備わっています。



しかし、

神性は

不可視なるが故に

見える

この肉体のみを

自分と思い

外にあるところの

物質にばかり

重点を置くように

なっていきます。



本当に見るべきは

現象である

肉体ではなく

本質である

神性をこそ

見なければなりません。



結果である

人間ではなく

私たちを創造し給う

原因であるところの

唯一不二の神をこそ

見なければなりません。



あなたの肉体は

神の愛の表現体として

生かされているのです。



神という生命が

離れるとき

肉体は消滅していくのです。



見えるものは

必ず消えていきます。

見えるものは

無常です、

一定のものはありません。

非実在です。

実在しているのは

見えない魂のみです。



目には見えない

神という実相から離れては

仮相である人間という

肉体は存在できないのです。



お釈迦さまは

その実相のことを

「空」(くう)と言い

その仮相のことを

「色」(しき)と言いました。

「空即是色」です。



「空」と「色」は

離れては

存在できないということです。



あなたは

元々は自由で、

無限で完全な

神性を備えた

実在の魂です。

それが

わざわざ

不自由で

有限で不完全な肉体を持ち

この現象界に

生まれているのです。



この神聖なる計画に

思いを馳せて

いただきたいのです。

魂の進化の道を

思い出して

いただきたいのです。



最初に

私たちのひとりひとりの

内には

わけ隔てなく、

神性が宿っていると

言いました。



その神性を

輝かせることです。

神性であるところの

思いやり

慈しみ

感謝の心

愛の心を

輝かせることです。



人々に対して

生きとし

生けるものすべてに

光を広げるのです。

神性は

神我(真我)とも言い

神意識とも言います。



神は積極です。

積極的に

意識して

行うのです。

神我(真我)を顕現することです。



あなたの内なる光、

神我(真我)と対面してください。



静かな時を持ち

心を平らにし

あなたの内なる光へ

一心集中してください。

そこにのみ

神は坐しています。



その光は

智慧であり力です。

その光は

エネルギーです。



光に勝る

智慧はありません。

光に勝てる

力は存在しません。

光は不滅です。


あなたは光そのものであります。

今日、出会うすべてに

感謝を捧げ

光の配達人として

光を届けに行きませんか。



ありがとうございます

2014年3月15日土曜日

「自神(じしん)を見つめる」

最近、自信をなくしている方が
多いのでしょうか。

「自分は、
ダメな人間です!」と

メールや電話を
いただいたりすることが
あります。
その内容を見聞しますと
多くの方は、
他の人との比較をして
「自分はダメだ!」と
自信を喪失しておられます。
なぜ?
他人と自分を比較して
悩むのでしょうか?
他人と自分の
今生のテーマは
元々、違います。
違うテーマで
違う体験をしながら
進化をしています。
山に登る時
目指す頂上は同じであっても
登るルートは違います。
富士山に登るにしても
吉田口(河口湖口)ルート
須走口ルート
御殿場口ルート
富士宮口ルートと
四つのルートの
登山道があります。
富士宮からのルートは
初心者向けのルートです。
初心者の方が
いきなり
吉田口や須走口から
登りますときついです。
それと同じように
それぞれの人生も
生まれ変わりの回数や
その輪廻の中で
体験を終えてない部分に
スポットを当てて
いますので、
違うのは当然なのです。
ですから、
違いを見て
比較をして
「自分はダメだ!」と
思うこと自体が幻想です。
他の人と
比較をする価値観をこそ
見直さなければなりません。
違う問題集を
解いているのに
人と比較して
自信をなくすことは
なんと!
馬鹿げていると
思いませんか?
もし、「自信が喪失気味だな!」
と感じていられるのでしたら、
まず、目の前に差し出されている
あなたの問題集や
設計図を
自信を持って
解いてください。
自分を
もっと信じてください。
自信とは、
読んで字の如しで
自分を信じることです。
自分を信じることで
自信が湧き上がってきます。
自信とは、
自神(じしん)です。
あなたの内に
神が内在しているのです。
ほんとうの信仰とは
あなたがそのままで
完全であることを
信じることなのです。
どこか遠くにある神を
信仰するものではありません。
あなたの内をこそ
見つめてください。
そして、
あなたの目の前に起こる
すべての出来事や
その出来事に関わる
人たちを受け入れてください。
あなたの進化に関わってくれる
大切な人たちなのですから。
そして、
あなたの問題集のテーマを
大切にすることです。
あなたのテーマが何であれ、
また、
「自分はダメだ!」と
自信を喪失している
渦中にいたとしても、
あなたの中の
中心軸をしっかりと
見失わないことです。
その渦中において、
あなたの神性であるところの
良心を顕現させることが
最大の目的なのです。
この目的に気づくことこそが、
自信の源泉なのです!
今日も生きているということは
生かされているということです。
どなたにも言えることですが
明日、生きている保障は
ありません。

今日も生かされていることに
心からの感謝をして、
あなた自身のテーマを楽しんで
最期まで取り組んで
いこうではありませんか。
ありがとうございます。

2014年3月14日金曜日

”幸福を感じるこころ”

今、この瞬間

あなたは幸福ですか?

それとも、

不幸ですか?

こう問われたら

どう、答えますでしょうか?



「私は、不幸です!」と

答えたあなたは、

これから先も、ずっと

不幸な人生を

送ることになります。



今、この瞬間にのみ、

確かな時が存在します。

今、不幸だったら

いつ、幸福になれるのでしょう。



真理とは

単純明快です。



真理は、

ただあなたを

変えるために

存在するのです。



あなたの見方・考え方を

変えるために存在します。

他の人や外の世界を

変えるのではないのです。



不幸ということは

あなたは、

自分の中に

不幸の種を見ています。



幸福ということは

あなたは、

自分の中に

幸福の種を見ています。



あなたの意識の焦点を

不幸に当てるか

幸福に当てるかによって

幸・不幸は決まるのです。

そのどちらかしかありません。



私たちの世界は

二元性という対極があるから

存在しています。

光をより輝かせるためには

暗闇が存在するように



しかし、

どちらに

スポットを当てるかは

自分で決められるのです。



あなたは闇を選びますか?

それとも光を選びますか?



あなたが、

幸福かそうでないかは

あなたの

今、置かれている環境や

状況によって

決まるわけではありません。



常に幸福の種を見つけ

それを育てていけば

幸福なのです。



私たちは

条件をつけることがあります。

「これさえあれば、

幸福なんだけど」とか

「これこれがないから、

不幸だ!」とか

言ったこと、ありませんか?



それは、

自分を狭く限定した

考え方に過ぎません。

その思考をこそ

変えなければなりません。



その価値観をこそ

変えなければなりません。



あなたの本質は

無限であり

自由自在であります。

それを発見せんがために

わざわざ

この世へ降りてきました。

魂の進化に必要だから

降りてきているのです。



神我である

自由自在

融通無碍

全知全能を知るために

不自由という

思い通りにならない感覚を

わざわざ学びに

降りてきているのです。



であるならば、

不自由な感覚を

充分に感じ取り

味わい尽しましょう。



そして、

人は、

ほんとうの自由に至るのです。



今、この瞬間に

目の前にある

幸福を感じてください。

目の前にある人々や

すべてのものを

愛してください。



ひとつの条件も

つけることなく

思いやり

慈しみ

心から愛してください。



それが、

”幸福を感じるこころ”であり、

神我に到達する道なのです。



ありがとうございます。

2014年3月13日木曜日

「私は、主人公です!」

あなたには

今日という括りしか、

存在しません。



もっと、

厳密に言えば

今、

この瞬間にしか

確かな実在はありません。



だから、

昨日までの人生は

どんな人生だろうが、

もう、

既に

過ぎ去ったものです。



既に、

過ぎ去ったものに

しがみつき

それを、

実体のあるが如く

今をも、

心を占有し続ける。

それは、

幻想に過ぎないのです。



また、

これからの

未来の人生は

まだ、

誰にも来ていないし、

来る保障もありません。



それも、

実体のあるが如く

こころを占有します。

それも、

幻想に過ぎません。



過去も、

未来も

実体はありません。

それなのに

あなたの心は

いつも、

過去と未来に

占有されています。



それでは

今日を生きる。

今を生きる。

この瞬間、

瞬間を生きることは

できません。



それが

昨日書いた

神道における

『なかいま』(中今)の

考え方の

意味合いでもあります。



時間の

永遠の流れのうちに

中心点として

確かに

存在している今を



それは、

神と共に

存在している

今のことです。

と書きました。



あなたは

今という、

この瞬間、

神と共に

存在しています。



神は

有限者ではありません。

無限者であります。



神は、

生きとし

生けるものを

排斥し

分離はしません。

育みそだて統合します。



無限であり、

統合であるならば、



あなたの

目の前に

現れるところの、

すべての現実は

「あなたが生み出した。」

ということを

認める立場にある。

ということになります。



「なぜ?そうなるの?

冗談じゃない!

そんなこと厳しすぎる!」

と聞こえてきそうです。



それは

あなたが

「私は、主人公である。」と

認める立場でもあります。



あなたという存在は

毎日、毎日

確かな実感を

持っています。



いくら

身近にいる

愛する配偶者や

優しい家族でも

あなたという存在の

ようには感じられません。



その確かなあなたが

「主人公」なのです。



「私は主人公」という

立場であるなら、

あなたの目の前に現れる

すべでの物語の責任は

あなたにあることになります。



今までのように

有限という立場を

取っていたとしたら、



自分に都合のいいように

判断をし



「これは必要だけど

これは不必要だ!」



「この人はいい人だけど、

この人は悪い人だ!」と

分類して

仕分けをしていました。



この立場に

立つ限り、

何か不都合や

問題が起った時、

あなたは、

その原因を

あなたの外部に求めます。



その責任を

あなた以外の外部に

転嫁しようと考えます。



「私は主人公」という

立場を選択した場合は、



すべては、

自己責任ですから、

例え、

不都合や問題が

起きようとも

その原因を

外には

求めなくなります。



すべて、

「私が、生み出した!」と

なります。



何か問題が

生じたとしても、

「誰が?」と

いう考えはとらず、



「どうして?

そうなったんだろう!」

という内部からの

問いかけが

湧き上がってきます。



その立場で

また、

新たな現実が

起きてきます。



そして、人は

自我の気づきを得て

有限から無限へと

飛翔していくのです。



どちらの道を

行くかは

それぞれに

委ねられています。



しかし、

どちらを

選んだとしても

いずれは

無限の道へ

進むことになります。



それは、

私たち

ひとりひとりが、

帰り着く

”一なる本源”が

そこであるからです。



過去は

既に過ぎ去っています。

過去の

奴隷になってはいけません。



今、この瞬間に

この確かな最初の日に

「私は、主人公である。」と

宣言しましょう。



未来は不確実です。

幻想なのです。



今、この瞬間に

この確かな最後の日に

「私は、主人公である。」と

宣言しましょう。



この道は

創造者である

神へ向かう道です。



この道を

選択したとき

すべての人々や

出来事は

あなたを

進化へと導く

協力者以外の

何者でもなくなります。



困難、

苦難と見える

様々な出来事も、

敵のように

立ちはだかっていた

憎き人たちも、



自分を主人公とする

あなたの物語に

彩をまた、

渋さを加え、

充実した偉大なる物語に

完成させようと

協力してくれた

名バイブレイヤーだったのです。



さあ、

今日という一日に

出会う出来事

出会う人々

出会う環境は



あなたが自我に

気づき

神我へと

到達するための



あなたへの

メッセージを携えています。



感謝の気持ちで



その

珠玉のメッセージを

受け入れて

いこうではありませんか。



ありがとうございます。